文章というのは、目で読むもの。
でも、文章は「声に出して読むもの」のような気がする。
昔、一人暮らしをしている頃、まだテレビなどなくて、外とのつながりは唯一ラジオだった時代が僕にはある。
ラジオで音楽を聴き、ラジオで文学を聴き、ラジオでドラマを聴き、落語を聞き、深夜放送で笑って泣いた。文章は音を通して耳で聴くものでありました。
時々、狭い四畳半で友達と「朗読会」などと称して、好きな本や詩集を読みあったりした。
黙読もいいけれど、音に出すことで、息と共に外へ言葉を吐き出すことで、言葉に命が与えられ言葉が踊り出す。
朗読の力を信じたい。
それは、演技すること、あるいは演劇をすることを信じることに繋がっているのかも。
言葉を吐くその人間の歪みや偏り、そして深さや浅さすべてをひっくるめて、声を出す朗読には力があるはずだ。
綺麗に整った声よりも、生きた声で。
文章は、音になったとき、命を吹き込まれるのだ。
寺山修司『飛行機よ』朗読:松山ケンイチ
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