『閉された言語空間』- 占領軍の検閲と戦後日本 江藤淳
あと一週間で、文芸評論家・江藤淳さんが亡くなって十年になります。
この方のほぼ最後の仕事と言っても良い『閉された言語空間』は今もその輝きをなくしてはいません。
今読むべき本はこれだ☆
この書物こそ、僕の中で江藤淳という人物と、アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーという人物がまったく国家や文化という枠組みを超えて一致して見える部分なのです。
この本は、「一部:アメリカは日本での検閲をいかに準備したか」そして「二部:アメリカは日本での検閲をいかに実行したか」という二部構成で語られていく。
アメリカという国による、戦後の目に見えないもうひとつの戦争、すなわち、思想と文化の殲滅戦が一方的に開始され、その後の日本はそこで植え付けられた価値観(閉された言語空間)を当たり前の自明のこととしてきました。
占領期間中、CCD(民間検閲支隊)といった秘密の占領軍検閲機関によって、民主主義や言論・表現の自由等が極度に物神化され、拝跪の対象になる一方で、現実の言語空間は逆に「厳格」に拘束されて不自由化し、無限に閉されていくという不可思議な状況が生み出されてきたのです。
昭和二十二年にある日本の雑誌社の代表がアメリカのCI&E(民間情報教育局)の人間に言ったように「日本には自由な報道はなくて免許制の報道がある」だけなのです。
戦後の日本の問題の端緒は、実際ここにあるのではないか、というのが江藤淳さんの「閉された言語空間」という書物の提起する問題点です。
なんとも不思議な、既視感に捕らわれます。
近い過去においても、ベトナム、南アメリカ、東ヨーロッパ、イラク、アフガニスタン・・・・、枚挙に暇がないほど、アメリカはまったく同じ「民主主義の物神化」を背景に他国に対する内政干渉と文化・思想の破壊を繰り返しています。
最早、僕らが気がつかねばならぬのは、「右も左もない」ということ。
ただひとつ、アメリカ型市場経済とアメリカ型自由主義、そしてアメリカ型民主主義をベースにした価値観のみが正しく、それらに対する批判は、自粛するか密かに検閲され人の目につかないようにされているということ。
たとえば、この書物自体が、他の江藤淳作品とは違って、ほとんど書評も載らず、ながらく絶版になっておりました。まさに出版界の自主規制。
この国では、今もなお、あからさまに「無視」するか、穏やかに「無視」するか、いずれにせよ、検閲以前に無視が横行しています。まぁ、それ自体が検閲行為なんですが。
この本の第九章終わりに書かれているように、「いったんこの検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されるようになれば、CCDが消滅し、占領が終了したのちになっても、日本のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊をつづけ、また同時にいつ何時でも国際的検閲の驚異に曝され得る。」ということが、現実化しているのだと思う。
つまり、自己検閲の常態化がこの国では何十年も前から起きており、僕らがそれに気づくこともなく、言語空間というリアリティーが狭められて納得させられているというわけだ。
僕がロックしよう!と言うとき、それは面白可笑しく、カッコイイんだぜ、などと言っているのでありません。
ロックするってことは、「閉された言語空間」を超えよう!とすることそのものなんだ!
僕がロックしよう!と言うとき、それは面白可笑しく、カッコイイんだぜ、などと言っているのでありません。
ロックするってことは、「閉された言語空間」を超えよう!とすることそのものなんだ!
簡単に現状に納得すんなってことなんだ!
江藤さんには申し訳ないが、俺たちは、この本をしっかり読んで、もっともっとロックして、この閉された言語空間から意識的に出ていこうじゃないか☆
たぶん、江藤さんは天国で笑ってくれると思うけどね。
たぶん、江藤さんは天国で笑ってくれると思うけどね。
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