2009年7月11日土曜日

ララバイ

竜二:1983

金子正次という俳優がいました。
彼の姿を観ることができるのは、唯一『竜二』という映画だけです。映画公開中の11月6日に亡くなりました。享年33歳。
彼を看取られた松田優作さんは6年後の同じ11月6日に亡くなりました。

たった一本の作品で伝説を創った人でした。
僕は、勿論、この作品をオンタイムで観ていますが、金子正次を真似たその後の俳優や脚本は、どうしても好きになれません。似て非なるものです。切実なものが違うから。エゴの強さも半端じゃないですが、一度きりの人生を強く強く意識して散っていこうとする人間が人生の仕事の途中で穏やかでいられるわけがない。だから、金子正次の吐き出すエゴイズムは影響力とスゴみが違っていたんだと思います。少なくとも、その後の真似をした連中には、本質的なスゴみはなかった。

ヤクザ者が一般の普通の家庭生活を夢見て、足を洗い、定職に就く。しかし、我慢に我慢を重ね、妻と娘を心底愛しながらも、やがて、結局、もとのヤクザの世界へ戻っていくドラマでした。
銃をぶっ放したり、血みどろのアクションがあるわけじゃない、むしろ淡々と主人公・竜二の日常をカメラは追っていく。どこか、フィクションなのにドキュメンタリーを思わせる瞬間すらあるんです。それは金子正次という俳優を他で観たことがないからかもしれません。でも、それだけじゃなく、この映画には、血のように脈打つ俳優・金子正次の生命(いのち)が込められているのです。恐らく、観るものは、無意識にそのことに気がつく、だからこそ、見終わったとき言い知れぬ胸騒ぎを覚えるのだと思います。

ラストシーンが忘れられない。
午後の光の中。
女房が娘と近所の肉屋のセールで並んでいる。楽しそうにお話しする二人。
商店街の遠くに、ワイシャツ姿の竜二が現れる。
午後の日差しの中で、竜二が眩しそうに、二人を見つめている。
不意に、女房が竜二の姿に気がつく。
静寂。
見つめ合う二人。女房が涙をこらえている。別れの時が来たことが彼女にはわかるのだ。
くるりと背を向け歩き出す竜二。
女房が娘に言う「また、お祖母ちゃんとこ帰ろうか?」
娘が言う「また全日空に乗れるの?」
娘を抱きしめる女房。

夜。歌舞伎町。ショーケンの歌う「ララバイ」が聞こえる。
白いスーツで肩で風を切って歩く竜二がいる。

この物語は、基本的には「竹取物語」の構造を持っているんですね。人間界にやってきた妖精が、人間界からやがて元の場所へ戻っていく。この物語構造は古くから繰り返されてきた単純ながら強力な構造です。ここで描かれるヤクザは暴力を振るう悪の化身ではなく、人間です。その人間くささが逆にステレオタイプのヤクザ像をぶち壊し、僕らの胸を締めつけてくるんです。北野映画には見られない骨太な物語構造がここにある。その時代に人が振り向くことのなかったヤクザ者の日常に光を当てたんだな。それは今に繋がる重要なドラマの発見でもありました。その後多くの模倣を生んだ作品ですが、この映画だけは決して朽ち果てることがない。なぜなら、誰もやろうとしなかったことを、自主制作映画として創ってしまったことに意味があったからです。2匹目のドジョウは、やっぱり2匹目なんだな。

竜二がヤクザの世界から足を洗うときのモノローグ。

「花の都に憧れて 飛んできました一羽鳥

縮緬三尺ぱらりと散って 花の都は大東京です

金波銀波のネオンの下で 男ばかりがヤクザではありません

女ばかりが華でもありません 六尺足らずの五尺の体

今日もゴロゴロ明日もゴロ ゴロ寝さまようあたくしにも

たった一人の餓鬼がいました その餓鬼も今は無情に離ればなれ

一人さみしくメリケンアパート暮らしよ 今日も降りますドスの雨

刺せば監獄 刺されば地獄 あたくしは本日ここに力尽き引退いたしますが

ヤクザもんは永遠に不滅です』

モノローグ:


ラストシーン:

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