田園に死す:寺山修司 1974
寺山修司の映像作品の中で、僕が東京に来て最初に池袋・文芸地下で観たのが『田園に死す』だったと思う。
高校生の頃、月刊シナリオで脚本は読んではいたのですが、岩手の映画館では上映されることはなかった。ATG(アート・シアター・ギルド)系の映画は地方ではまず観ることができなかったので、東京に来た当初はそんな映画を貪るように漁るように観ていたのです。
「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなると思うか」
これはWikiでも取り上げられている科白ですが、この「田園に死す」という映画のちょうどイントロダクションを過ぎて本質へ入り込むきっかけになる場面(主人公の映画監督と評論家の対話)で評論家が監督に問いかけた科白です。
映画を要約すれば、捏造された記憶と真実の記憶の葛藤、ということになるでしょうか。
作家は記憶と向き合わざるを得ない。
いや、むしろ積極的に向き合わなくてはならない。
しかしながら、この主人公の監督のように過去の記憶の最も核になる部分は決して他言してはならないという意識も良く理解できます。というのも、彼の言うようにすべてを作品を通じてさらけ出してしまえば、もぬけの殻になる。
この作家としての恐怖心に寺山の姿が見えるのです。どこかで修飾せずにはいられない作家にもかかわらず、寺山自身、カラッポへの恐怖があったことがよくわかります。
過去を表に引きずり出せば、自身の存在の重さが目減りする感じがする。
ですが、木村功さん演じる評論家が紫煙の向こうで笑い飛ばすように、目減りするようなものなどなにひとつない。
何故なら、記憶は「解釈」にすぎないから。
解釈は無限であり、果てしないものだから。
僕らは、過去の記憶と向き合う時、その時々の解釈に身を委ねるほかないのです。
だからこそ、空っぽになることはないのだと、僕は思う。
他の作品の例に漏れず、この「田園に死す」という作品も絢爛なイメージと観念的な言葉や場面で、決してわかりやすいものではないけれど、天井桟敷を彷彿とする舞台的に映画へアプローチした傑作だと思います。
主人公を演じる管貫太郎さんと評論家を演じる木村功さんの対話シーン。
その馥郁たる香を楽しみましょう。
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