2009年9月1日火曜日

作家のモラル


吉田喜重

映画監督・吉田喜重さんの貴重なお話を聞くことができました。
勿論直接ではありませんが。

多岐にわたるお話しの中で、特に興味深い部分は次の部分ではないかと思います。

・映画は物語る装置ではない
・作家の不在
・継承させるものなどない
・作家のモラル
・リアリティーの限界

映画作家としてのお話ですが、舞台にも通じる普遍的問題を語っていらっしゃる。
「物語る装置ではなない」というのは、ともすれば科白やプロットですべてだと思われてしまう劇映画の在り方にたいする疑問です。言葉では語れない部分を映像(イマージュ)が埋め尽くしていくと考えるならば、言葉とは、物語るとは、いかほどのものか。

そもそもオリジナルで「確固たる作家性」なるものがあるのか。
たえず変質し、乗り越えようとする作家にとって確固たる作家性など桎梏に過ぎない。

弟子を持たない人生。
個の格闘を軸にして、それを継承させようなどと望む余裕を排する態度。

そして、そんな態度から、彼の最も重要な「作家のモラル」の話が出てくる。
商業的な部分に身を置きながらも、会社やプロデューサーの言いなりにならず、かといって反発に終始するわけでもない態度を持つこと。これは観客にたいしても同じ。批判されても観客をなじったりすることのないモラル。そのモラルを先輩監督である小津安二郎や木下恵介から学んだと述べる。
実際、たえずこの「モラル」を僕らは試されているのだと思う。
モラルとは個人的な価値観であり、無視すれば、それですんでしまう。人はどこかで己自身のモラルと向き合い、モラルを持たなければならないのだ。
単なる権力への迎合も、権力への反発も、モラルのなさを時に露呈する。
権力への迎合も反発も、簡単に堕落するというわけだ。
劇作の面では、ヌーベルバーグもシュールレアリズムも僕の方法ではないのですが、吉田喜重というか方に僕が惹かれるのは、映画作品や著作から立ち昇る凛としたそんな彼自身の「モラル観」なのだと思います。
何でもありのようで、実際はどんな仕事も「モラル」を試されている。

彼の最後のお話し、映画あるいは映像のリアリズムの限界も興味深い。
観客は映像で目にするものはフィクションであるという前提に立っている、と彼は言う。
従って、どれほどリアリティーを求めたところで、作り事から絶対に外へ出ることはできない。だとすれば作り事であることを受け入れる所からはじめればいい。制限されたリアリティーを認識すればよい。
まさに舞台を行う僕にとっても示唆に富む言葉です。
舞台は生身の人間が目の前で演じるというリアリティーがあるのですが、見世物であるという空閑条件から逃れることはできません。どこまでリアリティーを追求したところでフィクションが前提なのです。だから、舞台の上で「リアル」を主張しても誤魔化し過ぎないことになる。むしろ必要なのは、どこまでいってもリアルには成り得ないが、それでもリアルを追求しようとする「謙虚さ」だと思われます。観客に対し「これがリアルだ」と言った瞬間にそれは「嘘」になる。
というのも、どこまでリアルを追求したとしても、人を殴れはしても、人を舞台で殺すことはできない。あたりまえのことだ。ストリップをリアルと呼ぶ者はいないのだ。

このリアルに対する態度もまた、吉田喜重という一人の映画監督の「モラル」を感じさせる部分でありました。

二十分間、彼の話を聞いて下さい。

#1.


#2.

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