2008年12月14日日曜日

雨の向こうから


午前中降り続いた雨があがり、ベランダに出てみると、雲の間から一条の光が射していました。

僕の人生も中盤を過ぎ、これから先、更にどんな展開が待っているのかと思うとわくわくします。
日々の暮らしは、いつも青空というわけにはいきません。
が、いつも曇りや雨というわけでもありませんね。
きっと、奇跡は雲間から射す一条の光のように不意に姿を現すのでしょう。
ポール・オースターではありませんが、期待しないときにこそ奇跡は起こる。
今を目一杯生きること。
今に責任を持ち、果たすこと。
今を夢中で駆け抜けること。
今に感謝すること。

幸福は雨上がりの雲間から射す光そのものですね。

2008年11月20日木曜日

ろくでもない俺達の素晴らしき世界


俺達のろくでもなさは今に始まったことなのか?

そんなことはない。昔も今も、相変わらず俺達はろくでもないです。
ですが、すべてをそんなところから始めなければ。
すべてを「ろくでもない俺達の素晴らしき世界」から始めなければ。

先日、劇団公演用の台本がひとつ上がりました。今は夏の公演用台本を執筆中。
作品のテイストこそまったく違うけれど、作者が同じなら、嫌がおうにも味と匂いと色が出る。
それこそが、今回立ち上げる劇団の色になっていくだろう。

今後、世に現れるどの作品も、「ろくでもない俺達の素晴らしき世界」を描くことになるでしょう。
それこそが僕が演劇界のはしっこに身を置く真の意味なのではないかと、遅ればせながら今頃思っています。
ろくでなし野郎たちの暖かい作品を目指します。
よろしく。

ところで今日はいきなり冬ですが、いかがお過ごしですか?

2008年11月18日火曜日

秋です


秋です。

今日見かけた撓わに実った柿の実。時は確実に過ぎている。うかうかしてはいられません。しかし、無闇に走り出しても怪我のもと。足下をよく見なければ。
僕には何ができて、何ができないのか。
できることに精一杯賭けていきたいですね。

2008年10月27日月曜日

空よ


その少女は休み時間になると、いつも鉄棒にぶら下がっていた。
ぶらさがって、下から見上げる空は、どこまでも広く、思わず吸い込まれそうになる。
「おーいッ!空よ!」と少女は心の中で叫んでみる。
確かに誰かが遙か遠いところから「元気かい?」と答えてくれる。

空よ、お願いだ。この娘を見守り、慰めておくれ。
場所が変わっても、環境が変わっても、空を見上げることを決して忘れないこと。
地面に張り付いて生きるしかないが、心はいつでも空の上にある。
空の上からしか見えないものがある。

空よ。とその娘の父は思う。
少年の頃、あなたに慰められたことが何度もある。
やがて、時がたち、少年が父になり、娘に語る言葉を失うとき。
そんなとき、あなたを思い出すのです。
見上げれば、そこにある・・・あなたを。

小手先の技術は、空を見上げる孤独に確実に負ける。
技術によって夢が支えられているのではなく、孤独が夢を強化するのだ。

今日も空を見上げよう。
そう、今日の空は二度と戻ってこないのだから。

間違うということ

“ A life spent making mistakes is not only more honorable, but more useful than a life spent doing nothing. “
  George Bernard Shaw
Irish dramatist & socialist (1856 - 1950)


何もしないというのは、楽なようでいて、実際は疲れる。
そう思いません?
ゴロゴロ一日中やってると、頭痛がしてくるのは、僕が病の深い現代文明ジャンキー野郎だからでしょうか?社会の一歯車となって日夜コロコロコロコロ回っている奴隷だからでしょうか?

でもよぉ、はっきり言うけどよぉ、な~んにもしないのは疲れるよ、ホント。
何にもしないで、適当に生きるってのは、ほんとは大変なことだ。
原始の時代に生きていた人間でさえ、アルタミラやラスコーの洞窟に、必死になって絵を描いてすごしていたんだからな。
ゴロゴロするのは、失敗がないのでよい、と思うのは、愚かなことだ。
失敗がないのは、ホントによいことか?

俺なんかなぁ、はっきり言うけど、ここだけの話だけど、あんたにだけ言っとくが、失敗ばかりの人生だぞ。がはははは!ざまぁみろ!
だがな、劇作家のバーナード・ショーって人は案外いいこと言うなぁ。

「間違いばかりの人生は、何にもしない人生より、素晴らしいだけじゃなく、意味がある!」

どうよ?

何にもしないで、ゴロゴロして、人の批判ばっかしで、何も生み出さない人生ってのは、実はそれだけで十分「失敗」なんじゃねぇの?
どうせ、失敗するんなら、なんかやろうぜ!
かっこ悪くてもかまわない。惨めったらしくてもけっこう。金なんかほどほどでよい。モテようがモテまいが関係ない。立派と言われなくても上等だ。
なんだって、やったもんが勝つ!
世の中の勝ち組なんかどうでもいい。あれは人と比べてるだけだから。
とにかく、やったもんが勝つんだ!
正々堂々と失敗しようじゃねぇの!
ん?
どうよ?

2008年10月26日日曜日

不合理な存在

当たり前だが、人間はそもそも不合理な存在である。
だからこそ、できる限り合理的で論理的であろうとするのだろう。しかしながら、人間の試みる合理性や論理整合性には、必ず無理がある。
その無理を押し通そうとするところが、まさに、人間の不合理のもっとも典型的な顕在化である。

“It has been said that man is a rational animal. All my life I have been searching for evidence which could support this.”
     Bertrand Russell
English author, mathematician, & philosopher (1872 - 1970)

哲学者バートランド・ラッセルは言っている。
『人間は合理的な生き物だと言われきた。生涯を通じて、私はその証拠を探し求めてきたのだ』

ちょっと英語の先生をやってみると、この言葉の面白さがわかる。
has been said、というのは「~と言われてきた」という現在完了で表現されている。更に、I have been searching、というところも「~を探してきたし、今もなお探している」という現在完了・進行形になっている。
ということは、ラッセルは結局人間が合理的である証拠を見つけられなかったという否定的内容を、肯定表現で皮肉っているわけだ。

独りよがりであるとか、自分勝手とか、思いやりのなさ、とは別に、人はもっと己の感情と向き合って良いのだと思う。感情と向き合うことは、人生に責任をとるということなのだ。己の感情を無視し、何事もなかったふりをしながら生きる現代人は、己の不合理を受け止めようとせずに、わざわざ、そしてむざむざと、自分自身が自分自身を誰よりもまず最初に裏切るという悪徳を働いているのである。
自分を殺すことに慣れてはいけない!
他人を殺すのはもってのほかだが、無意識に己自身を殺すことのなんと無惨なことか!
僕らの中に、一人として合理的で、良くできた存在などいやしない。
悟ったような顔をしている坊さんににしろ、神父にしろ、教祖にしろ、教師にしろ、そのたぐいは全員嘘をついている!全員もれなく不合理の徒である。

だから、安心してもらいたい。
まず、自分の気持ちを大切に生きようじゃないか。
実は、それだけが真実だ。

2008年10月13日月曜日

デジャビュ


昨日は、武蔵小杉にある川崎市市民ミュージアムに行って『劇団 唐ゼミ』の芝居を観てきました。
タイトルは『ガラスの少尉』。
三十年ほど前、赤テントの状況劇場を観たのが、僕の芝居の始まりだったような気がします。
東京に出てきて、はじめて友達と観に行ったのが赤テント。池袋の開発前の空き地でした。すぐそばを山手線が走り、芝居の邪魔だろうなと思っていたのに、山手線の往来までも芝居の一部になっていたのを今でも覚えています。衝撃的な芝居との出逢いだった。
テントの入り口には縄が二列張られ、そこに生の鶏が何羽も吊されていました。一ヶ月の公演の間にそれは腐り、異臭を放つ液体をぽたぽたと滴らせている中を、芝居を観るには通り抜けなければなりません。あれは一種のイニシエーションだったんだな、と今思います。
そして、それはまさしく僕自身の芝居との関わりのイニシエーションになりました。
僕が今目指している芝居とは、形態もテイストも違うけれど、赤テントから僕は芝居の心意気と可能性を学びました。
今回は横浜国立大の元学生さんたちが唐さんから学んだその結果であると思いました。
制作し、演じているのは、今の若者たちなのに、それはまるで時間を三十年遡ってしまったかのような感覚がありました。彼には恐らく新鮮な発見であるものが、僕にはひたすら懐かしいものなのです。まさにデジャビュでした。
そして、芝居が終わったとき、僕ははっきりと思いました。
あの時代を経て来た僕は、やはり僕自身の道を行こうと。
それは間違ってはいないんだと。

君は君の道を行け。
僕は僕の道を行く。
そして、時代は巡る。
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