2019年6月25日火曜日

■ お知らせ ■

 上野火山Official Web Siteをリニューアル致しました。

2019年6月25日より、独自ドメインを取得し

以下のサイトに移行しました。

 

上野火山 Official Web Site


このブログサイトは残しますが、今後更新することはありません。新サイトへお越しください!

新ドメインは

kazanueno.com


よろしくお願いいたします。


上野火山





2019年5月18日土曜日

『美しいということ』

『美しいということ』

タイトル『紅』   作:米島虎太朗




先日、上野の東京都美術館にて絵画と写真の展覧会を見る。


久しぶりの上野の森。
日差しは結構暑かったけど、木陰に吹く風が涼しくて気持ちがいい。
駅から美術館まで、ゆっくり散策。いつもは近所の公園や川沿いを歩くんですが、木漏れ日の中を歩くのは最高にいい気分☆


沢山の人が歩いている。老いも若きも家族連れもカップルも或いはひとりで。そんな人々のすれ違う中、本来ならウンザリするはずが、なかなかそれも楽しい。その後、あえて人々の群れを余所目に、森を通り抜ける。
ヒンヤリした風を感じ、木々の緑の枝先の向こうに蒼空が見えた。瞳の中に太陽光線が創り出す光の輪が見えた。


ふと歩きながら、地元の駅のホームから見上げた時、薄い雲の間に逆さになった虹の弧を見たのを思い出す。上空には冷たい氷の粒があったのかもしれない。虹は普段とは逆向きに薄く七色の光を発しながら、ホームの上空に佇んでいた。その逆さの虹を見た後、今度は上野の森で、光の輪を見たわけだ。


美しさとは一瞬の奇跡なんだな。そのモーメントを逃すと決して同じ体験はできない。保存することも、見返すことも本来はできない。演劇や音楽に関わっていると、つくづくそう思う。同じことは二度繰り返せない。


しかしながら、写真や絵画というジャンルは一瞬を凍結させる芸術であります。勿論、演劇も映画も音楽も瞬間の凍結の側面もありますが、それでも「静」という要素は写真や絵画にこそ相応しい気がします。

木漏れ日の中を通り抜け、美術館の中に入り、一階の展示室の一番奥に、その作品は静かに掲げられていました。



**『紅』**



和傘の紅色が太陽光に照らされ輝く風情が、一瞬の揺らぎの中で切り取られていました。

学校という圧倒的な制約と圧力の中、懸命に戦っている君の見た景色は確かに「美」そのものでしたよ。


美は制度を超える。


とても大切なことを学んだ気がするんですよ。美しい瞬間に素直になれる、というのは一種の特権だということ。
そして、どんなに大人たちが、政治的に忖度しても、制度を盾に圧迫を加えても、美を見出した人間を止めることはできないのだ、ということを。



大人たちの尺度に合わない若者が次の時代を創り出すんだよ。
その意味で、この作品が新人賞を取れたことは、大人もまだまだ捨てたもんじゃないな、という証かもしれないね。


美しいということは、決して万人ウケすることではなくて、静かに対象と瞬間を共有し合う交流から生じる「結晶」のようなものなんだろうな。



上野の森で、僕はとてもリラックスして、美を楽しんだよ。



ありがとう😊y

2019年5月11日土曜日

懐疑的であることはたいせつだよ

"The Power of the sun"   by Kazan UENO
『懐疑的であることはたいせつだよ』



信じるという言葉があります。

僕らが日常的に使うこの「信じる」という言葉は、実に多様な意味がありますね。神や真実の存在を信じたり、あなたの言うことを信じたり、新聞の記事を信じたり、ネットの噂を信じたり、SNSの投稿を信じたり、、、、、どれもが同じようですが、ちょっと違う。

信じる行為を可能にさせるのは、信仰や信頼や愛情や友情や尊敬や、様々な要素によって質のことなるものだからです。
とはいえ、僕らは常に何かを信じたいし信じるからこそ何らかの確信を持って前へ進んで行けるし、信じるからこそ様々な問題への対処が楽になる。

ですが、本当に信じることで救われてますか?信じることで大概は救われるのでしょう。信じるからこそ、何かに囚われ、がんじがらめになり、疑うことが罪悪に思え、身動きがとれなくなる、なんてことありませんか

昔読んだ本の中で、クリシュナ・ムルティという方が「私は何も信じない」と言っておりました。確か彼の著作のタイトルにもなっていましたね。
自分の教団を持ちながら、信者たちを捨て、教団を畳んだ彼は、自ら何も信じないと言うことで、彼の後を追う信者たちに「自らの力で考えよ」と言ったのだと思う。

同じようなことがかつてドイツでもありました。
実存哲学の巨星、マルチン・ハイデガーは戦後ナチスに協力したということで、評価を著しく下げてしまった晩年が哀しい哲学者でしたが、戦争中、弟子であり愛人でもあったハンナ・アーレントをドイツからアメリカに送り出す時、こう言いました。

「思考せよ」

単純に何かを信じるのではなく、考え続けることこそ価値のあることだと伝えたわけです。

信じるという行為は、本当に難しいことですね。例えば夫婦だって信じることがなければ一緒に暮らすことなんてできやしない。信じることは、それほど僕らの日常に深く根ざした根本理念とも言えるかもしれません。
それでもなお、信じることの「怪しさ」、場合によっては「いかがわしさ」に注目せずにはいられません。


日々流されているニュースにしても、特にあからさまなフェイク・ニュースというわけではないにしても、すべて信じ込むような人はいませんよね。何か事件が起こると似たような事件が立て続けに報道されますが、それは報道する側が取捨選択もしくは忖度しているわけです。僕たちがニュースを選べるわけもなく、すでにメディアによって取捨選択と忖度が行われて、その結果として見せられているに過ぎないのです。
だとすると、一概に一連の報道を基に傾向を探ることは、報道を流す側の忖度に乗っかってしまうことになりはしませんか?
テレビは駄目だけど新聞は信じるというメディアの種類の問題ではなく、受け取る側のこちらの姿勢の問題なのです。鵜呑みにするのは受け取る側が「信じ」込む準備ができているからです。準備は教育かもしれないし、目上の人間から受け継いだ信念かもしれないし、社会的立場で培った常識かもしれません。いずれにせよ、自らを疑うことがない場合は、容易に「信じる」という行為が生まれやすいのではないかな。

それとは対称的なのが「懐疑的である」ということです。
一般に懐疑的であるというのは、どこか斜めに見た嫌らしい態度のように見られがちです。懐疑的=疑り深い、というのかな。

とはいえ、懐疑的であるというのは思考するということであり、疑うことのない思考は思考ですらないかもしれない。人間の頭の中は絶えず様々な事象が入れ替わり立ち替わり現れ、疑問(疑念)と検証(確認)を繰り返しています。
疑うことがなければ確認もないので、疑うことがなければ放置されるわけです。安易な信じるという行為の究極の危険性はここにあると言えます、
すなわち、思考をやめ、事象を「放置する」ということ。


クリシュナ・ムルティの「何も信じない」も、ハイデガーの「思考せよ」も共に、放置せず、人任せにせず、自らの精神をフルに使って、頭脳を働かせ「疑え!考えろ!」と言っているのではないかな。僕にはそう思えてならないのです。


懐疑的であるというのは、実に良いことです。
懐疑的であるからこそ、思考するのですから。
懐疑的であることにあまり良い印象を持たない日本という国の常識的なものの見方こそ、見直すべきものだろうとしばしば思うのです。






「懐疑的であること」にあたる英語の"Skepticism"は決してネガティブな意味はないと思うけどね。
何事も簡単にあるいは安易に信じすぎず、疑いましょう。






2019年5月6日月曜日

言語化する意味


【頂いたルチャのマスクを被って著者近影】


『言語化する意味』


言葉の持つ力を信じたい。
生真面目な言葉も、ふざけた言葉も、かたくなな言葉も、優しい言葉も、すべて必要だ。僕らは言葉によって生かされている。


言葉とは一種の祝祭だ。この世を生きて味わう祝祭の結晶。それが言葉だろう。



「なんとなく」というのはたまには良いけど、やっぱりやだな。なんとか言語化しようと試行錯誤を繰り返し、苦悶し苦闘するのがいい。
同じく「人それぞれ」というのも、好きになれない表現のひとつ。なんであれ、どんな状況でも、人それぞれは常に何にでも当てはまる当たり前のこと。故に「人それぞれ」は決して結論にはなり得ないのだ。ただ丸く収まるだけ。そこに批評や批判といった思考が入り込む余地はない。言語化に対する拒絶。それが「なんとなく」と「人それぞれ」ではないかな。



先日も、大学で質問されたのが「批評」と「批判」についてである。
どうも誤解があるようなのだが、批評と批判は「否定」ではありません。むしろ事象や対象を分析することこそ批評や批判の存在価値でしょう。なのになぜかこの国では音が似ているせいか批評と批判が否定と同一視されている。しかしながら批評にも批判にも否定の意味はどこにもないのです。



言語化するとは、世界の表面から隠されている意味を掘り返し、そこに批評や批判を加えることでしょう。見ようとしない限り決して見えてはこない世界の「意味」は批評や批判という鋤や鍬でほっくり返さない限り、人目に晒されることはないのです。



日本の従来の文化の中には、阿吽の呼吸であるとか、みなまで言うなとか、言わずともわかるとか、言語化することを一段低く見る、もしくは言語化することが必ずしも意味があるとは見ない傾向があるようです。



でもね、言語化は必要です。あえて言葉にすることで、具体化し見え始めることも多いから。言葉にしなければ、ないのも同じ。そこにはほんのちょっとの勇気が必要なのかもしれません。
言語化するという行為を通じて批評し批判すると、周囲の反感を買って、自分に対する評価が下がるかもしれません。これもよくこの国で起きること。無難な、批判も批評もない空虚な言説ほど評価は高くなるでしょ。そういうことです。でも、ここはあえて言語化する勇気を持ちたいものです。それは何も反感をあおることでも、ネガティブに他者を攻撃することでもありません。対象と正直に直に向き合う決意こそが、言語化するということのひとつの矜持に他なりません。


言葉を使う祝祭は、ほんの小さな勇気と共にあるのだと思う。



インターネットでも、日常生活でも、学校や会社でも、クラブでも通りを歩いていても、そこら中で息苦しいほど言葉が敵視され、それ故に言葉が貧困に陥っていると思いませんか。言語化することもなく分かった感じになって、その日を過ごすことが多くなっていませんか。SNSではしょっちゅう書き込むのに、曖昧なまま言葉がネット上を漂っていませんか。テレビや広告宣伝の文句に、なんとなく従って日々を過ごしてはいませんか。自分で考えることがどんどん億劫になっていませんか。僕らはこうして言語の力を少しずつ奪われてくんだな。
こんな曖昧でよく分からない力のうごめく時代だからこそ、言語化することは意味のある行為なのだと思います。



寺山修司は生前「書を捨てよう、町へ出よう」と言いましたが、今は「無自覚な合意を捨てよう、言葉にしよう」と言いたいね。



どんな立場にあっても、言語化する努力は、未来を創り出すきっかけになるんだ。
昔料理を教えてくれた斉藤さんという料理長が「言葉で説明するのもいいもんだぜ」と言っていたのを思い出します。本来言葉を必要としないかに見える料理も、実は言語が必要なのですね。



言語化するということ。それはこの世界を生きるべき意味あるものとして認識する大切な方法なのだと思うな。
言葉はそれがたとえ放送禁止用語であっても、美しいものなんだ。

2019年4月11日木曜日

春が来たんだぜ!!

本当に久しぶりに当ブログを更新します。

ある時からブログそのものに嫌気がさして、この数年間放置していました。悪しからず。
ごめんね。許してね。愛してるぜベイベ★★ありがとう。

で、それが、少し心境の変化もあり、またネット上のブログにも向き合ってみるか、という気になりました。

この数年、本当に真面目に「音楽」に取り組んでいたので、バンド活動が本格化してきました。勿論、また芝居もやりますが(実は朗読劇の準備をしております)、作詞・作曲とLIVEを真剣にやってきて、スタジオライブから次回は、いよいよライブハウスに本格進出を果たす予定です。

写真は先月(2019年3月21日)行ったLIVEの写真です。
場所は「中野サンプラザ地下スタジオ BASS ON TOP」





音楽と芝居は、舞台という意味では全く同じ重さで僕という人間を形成しています。何十年も前に文学座で芝居に音楽は必要かという論争を繰り広げ、そのあげく大御所の諸先輩方に叱責を受けたのも昨日のような気がします。それでも僕には音楽と芝居の両方が必要です。

数日前から法政大学の「比較演劇学」の講義もスタートし、誠に忙しい日々を過ごしておりますが、こうして夢中になって音楽、芝居、英語、比較演劇学、といった様々なモノに取り組めるのは「幸福」以外の何ものでもないなと思う次第です。

兎にも角にも、感謝、感謝、であります。

これから、心機一転、このブログも更新していこうと思いますので、改めてよろしくお願い致します。

2016年11月1日火曜日

演劇における音楽の位置の問題

『演劇における音楽の位置の問題』

 


先日、縁あって千葉の方で行われた「焚き火の会」というのに参加しました。
昔、岩手にいた頃は庭先で焚き火は日常茶飯事でしたが、今都内で焚き火ができる環境は、ほとんどありません。従って、都会に住む多くの子供にとって焚き火は想像の外にあるといっても過言ではないでしょう。



参加した多くの子供たちは、時間が経つにつれ、どんどん解放されていくんですね。自分のしたいことをしたいようにやるという人間の基本姿勢を見せていました。
そうなると、残念ながら学校教育なんてものは、焚き火の炎の前では無力だな。なぜなら、教育は教師に仕込まれるものじゃなく、自発的に発見し、楽しんで身につけたり、深めたりすることなんだよな。それは参加した自分も含め子供たちや大人たちを見てはっきり思いました。
誰一人命令したり指示を出したりする大人がいないのがいい。大人も子供も自分の好きなことしかやらない。それでいいんだな。



さて、そんな中で僕は秋刀魚を焼く係りになりまして、ひたすら秋刀魚を焼きまくりました。網に秋刀魚の皮がひっつかないように豚のラードをあらかじめ塗って、少し焦げるぐらいまで焼く。そのジュージューいってる奴を皿に載せ、おろしたばかりの大根下ろしを添えて、スダチのようなレモンを搾り、醤油をかけて食う!うまい!全身秋刀魚の匂いになりながら僕は幸せだった。


夕方、秋刀魚がだいたいはけた頃、何人かの方々と今度はとびきり旨い豚の串焼きを食べた。旨い塩が練り込んであり、肉は柔らかく、ジュースィーイ!!!


唐突に話題は演劇と音楽に関するものになった。
実に唐突に人生は転回する。いや展開するか?
いずれにせよ、実に興味深い話になった。お相手はフルート奏者にしてDJであり、文筆家でもある花田志織さん。
僕は演劇とはドラマだが、音楽を決してSEではないと考えている。むしろ音楽によってドラマが喚起されるのが僕の常である。なので、音楽と科白、もしくは音楽とドラマはどちらも50%で半々だ、と考えている。彼女は僕にこう訊いた。 
「上野さんにとって演劇とは何?」
僕は答えた。
「音楽をベースにドラマを考える、それが僕の演劇ですよ」
すると、志織さんはこう言った。
「それは音楽を演劇で表現なさってるんでしょ?」

いやぁ、良い言葉だな。そうなんだ、確かに僕は音楽を演劇化しているのだと思う。作曲と同じだけ戯曲を作り、演奏と同じように演出する。
僕は音楽を演劇にしているのだと、焚き火で自覚できた。
いつも弾いているピアノと同じように演劇に向き合いたいと思う。僕の演劇は音楽であり、音楽は演劇だ。
音楽は感情であり、空気であり、匂いである。
音楽は色であり、肌触りであり、夢である。
音楽は記憶であり、メッセージであり、時間であり、愛である。


そうか!なんで僕は芝居をやりながら、バンドをやるのか。今はっきりわかる。
僕の演劇における音楽の位置は、焚き火の熾火のようにドラマの中心点にあり周りを照らすものだ。効果音のような添え物ではなく、音楽はドラマそのものを彩り照らすものだった。



「音楽を演劇で表現してるんです」
これ、僕のこれからのキャッチフレーズ☆

志織さん、Thanks!!!!
こんど、セッションしましょう!!!!

2016年10月28日金曜日

最近、、、



『最近、、、』

最近、、、SNSに書き込むことはあっても、ブログをあまり書かなくなってしまった。でも、ブログの存在意義も少し分かりはじめた気がする。



SNSはブログに比べれば、TwitterにせよFacebookにせよ、はるかに公共的である。
そのパブリックスペースでは、やはりなんだってありというわけにはいかない。もちろん、ブログも公共性はあるが、それはある程度まで、そこにはそのブログの開設者個人の生き方がSNS以上に反映されるだろう。
例えて言えば、SNSは集合住宅なのに対して、ブログは一戸建てだと思う。メインテナンスも環境の構築もブログは開設者個人の勝手である。
今更ながら、ブログの面白さに気がつき始めたのである。
ブログとは「非公共的」であると思う。それは私小説だ。



ブログをはじめて何年経とうと自分のことしか書けないし、今もなおわからないことだらけ。
実際、知らないうちに、とんでもない書き込みをされたり、妙なリンクを貼られたりもする。素人の僕にはその方法すらわからないが、乗っ取られるのか、手を入れられるのか、いずれにせよブログもSNSに負けず大変なことがいろいろある。最近も変なリンクを貼られたりしたからね。



それでも、ブログはSNSにはない魅力があると思います。
日常の仕事の片手間ではあるけれど、これからもあれこれ書いていこうと思います。もっと頻繁に更新できればいいのですが、なかなかね。。。
今、様々な形で執筆環境を整えているので、徐々にもっと頻繁になっていくのではないかな。



今世間では、相変わらず芸能人のスキャンダルやら、妙な事件事故が相次いでいますね。
民衆が知るべきFACT(事実)を隠すためにISSUE (問題)を造りだし、TRUTH(真実)を求める民衆の眼を煙に巻く。なんてね、そんな韓流ドラマ風に勘ぐりたくもなるような動きが随所に見え隠れしています。
朝から晩まで似たようなニュースをTVでも新聞でもネット上でも垂れ流しながら、例えば、日本の農政のみならず社会福祉政策、及び市民生活の隅々にまで破壊的で壊滅的な影響を及ぼすであろうTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の行方はまったく報道しない。もうすぐ強行採決しようとしてるのにね。



最近、、、最近、、、最近、、、、、
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