2010年8月11日水曜日

もうすぐ名古屋

ほんと青い空と白い雲は見飽きませんね〜!!

走る車窓から!


☆上野火山☆

出発☆

まずは名古屋へゴー!!

それから岐阜方面へ向かいます!!


☆上野火山☆

新幹線に乗る前に


品川の空に、夏らしい雲です☆

これから新幹線ですが、その前にアイス珈琲で一息!


☆上野火山☆

2010年8月9日月曜日

午前中の仕事部屋

昨日はこんなにいい天気だったのに!


今日は台風が近づいているそうで!


真夏からいきなり秋なのかな?


明後日から数日、旅をします。今夜はその準備。

また旅の空の下から数日間ブログしますよ☆

さぁ、どこへ行くんだろう。

☆上野火山☆

2010年8月7日土曜日

季節はずれの紫陽花

今朝は久しぶりにWalking & Runningを再開する。

ここのところ溜まっていた仕事を片付けるのに追われ、朝からデスクに向かう日が続いていたので、WalkingやRunningどころではありませんでした。
今日も暑くなりそうだな、などと思いながら、重い腰を上げ久々の朝の道。
いやぁ〜気持ちいい!!
心なしか冷房にやられていた足のむくみがとれた感じ。

で、帰り道。
どこからともなく、懐かしい水っぽい匂いがして、立ち止まり左の方を見ると紫陽花がポツンと咲いていた。

不思議なことに僕はこの匂いで、三十年以上も前に東京に一人で出てきた頃のアパートを思い出したのでした。
窓の外はゴミ捨て場だったのですが、その向こうに何故か綺麗に紫陽花が咲いていたんだな。
不思議なのは紫陽花には特徴的な匂いがないこと。
なのに、僕には水のような匂いがしたんだ。その匂いで季節はずれの紫陽花に気がつき、三十年前の風景にタイムスリップした。

僕たちはかなり詳細に記憶してるようです。
今朝は思いがけず、空気に漂う匂いと季節はずれの花から、記憶の旅をしました。

そうだった。
ゴミ捨て場の向こうに、紫陽花が、咲いていたんだよ。。。。


☆上野火山☆

2010年8月6日金曜日

最近気になること

『メディア・セックス』ウィルソン・ブライアン・キィ:著、植島啓司:訳


最近様々なところで「サブリミナル広告」なんてものはない、という話をよく耳にします。

昔、有名なコカコーラのCMの話がありました。映画の中に目には見えない形で挿入されたコカコーラの映像に刺激され、休憩時間に客が売店に殺到したとか。

でも、この話は全くでたらめだったということが、この実験を行った本人の口から明らかになったらしい。

というわけで、今やお亡くなりになったウィルソン・ブライアン・キィ氏の名著『メディア・セックス』もお笑いぐさのトンデモ本というわけです。

彼の主張するように、広告写真にいかがわしい文字や映像を一見見えない形で挿入することで、いったいどんなコントロールが働くんだ?という話があります。その通りだと思う。写真に書き込まれたSEX等という文字で、人は何か行動を具体的に起こすだろうか?

しかしながら、90年代、僕はたまたま米国の雑誌TIMEを定期購読していて、かなりの期間、定期的に雑誌を精査することができました。その頃アメリカの敵であったフセイン元イラク大統領の画面に無数に書き込まれたSEXの文字に愕然としたのを覚えています。

で?だから?と言われそうですが、毎週そのような無数の否定的な文字に晒されれば、いつの間にかその人物に対する評価もサブリミナルな影響で変わってくるとは言えないでしょうか。それこそが一種のメディアによるコントロールではないですか。

「トンデモ」という表現で、様々ないかがわしいものの権威を剥ぎ取ることは大事なことでしょう。

ですが、トンデモにも気をつけなければならない。利口そうなしたり顔で「トンデモ」などと言う連中の言葉も疑う必要がありそうです。

サブリミナル広告がなくなったわけでは決してありません。

科学的根拠がないと嘲笑うことで、その存在を煙に巻いているのです。

確かに、フロイトやユングすら、未だに科学とは見なされてはいません。彼らの著書もトンデモ本ということになるだろうな。

僕らは自分の目でしっかりと見据えなければならない時期にきています。

思い切り評価の下がっている本であっても、しっかりと判断しなければいけない。

その意味では、ネットはテレビや新聞と違って正しい情報があると信じている向きは注意が必要でしょう。

ネットはそもそもゴミ溜めです。

ネット上で「トンデモ」扱いされているもので見直さねばならないものがたくさんあります。この本もそのひとつですが。

リテラシーがこれほど試される時代もこれまでなかったのでしょうね。

簡単な否定は、簡単な同調と同じほど愚かなことです。


最近、サブリミナルな広告はますます猛威をふるっているように思います。

だって、ウィルソン・ブライアン・キィの死後、サブリミナル広告なんてものは、そもそもなかったということになっているのですから。

1988年のアメリカ映画にジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』があります。サブリミナルに大衆がコントロールされ、消費者へと堕落させられている世界を描いたSFですが、まさに今日の世界を彷彿とさせる作品です。

現在、残念ながらこの種の作品は作られず、むしろニヤニヤ笑いながら「トンデモ」などとレッテル貼ることで『ゼイリブ』の世界が実現してしまっているのではないかという既視感に捕らわれます。

やはり、目をつむってはいけないと、僕は思うよ。


Subliminal messages


1988 John Carpenter “They live”

2010年8月5日木曜日

縄文の共鳴

キリロラ☆ライブ

昨日はワークショップの後、高円寺の新しい劇場「座・高円寺」に行ってきた。
縁あって知り合いのキリロラさんのライブに顔を出す。

いやぁ〜よかったな!!

音楽が呼吸であることを感じさせてくれる唄と演奏と舞でした。
縄文をテーマに古代日本の魂を掘り起こそうとする試み。その試みは劇場という閉塞された空間にもかかわらず、空気の流通を起こし、風を吹かせたのだった。
静かな始まりと土笛や笙といった土俗的な民族楽器のせいで、奥ゆかしさと静謐さを感じさせますが、やがて火の音楽に転じたあたりで、チェリストの激しいエレクトリック・チェロの音とグラインダーでチェロをこすって火花を散らすあたりで、単なる大人しい民族音楽の域を軽々と超えていく。
個性のまるで違うミュージシャン達が、共通の音を求めて共鳴しあうそれこそが縄文的だと気がついた。
「共鳴」
本来楽器ではないはずのグラインダーの轟音でさえ、キリロラの限りなく透明に近い歌声と共鳴するのだ。
この共鳴の中で、人はどこまでもリラックスする。不思議だ。本当のリラックスはカオスのような音の共鳴の中にあったのだ。
古代の日本語が想像の森の中で木霊する。
音楽は芸術の一ジャンルではなく、むしろ生そのものだということがわかる。
言葉は息とともにあり、呼吸の伴わない言葉は言葉ではないことがわかる。
言葉を使う者も、音楽の呼吸に敬意を払わねばならないと思う。
というのも、なにものかに書き込まれた文字も、その文字を書いた人間の息吹の発露なのだから。

静寂と激しさを行き交いながら「共鳴」する魂の在処に気づいたのでした。

そうだ。
「共鳴」は「共感」のもう一つの謂いであり、僕ら人間精神の本質なのだ。
実は数日前まで大学の教室で共感について講じていたのだが、キリロラを観て聴くことで、「共鳴」という、より人間精神の原質にふさわしい語彙を手に入れたような気がする。

遙か縄文の時代に置き忘れてしまった人間精神とは、己の外側の自然や人間と「共鳴」できるというリアリティーだったのかもしれない。
劇場を後にしながら、僕はそんなことを考えていた。

☆上野火山☆

kirilo'la' いろはうた~アワの唄
Powered By Blogger