選挙権というものは、民主主義国家に住む者にとって重要な権利である。
もっともだと思う。
だが、待てよ、とも思う。
選挙権を行使しないこともまた国民の権利なのではないだろうか。
僕はこう思う。
たとえばアメリカの大統領にマケインがなろうがオバマがなろうが、実は大して違いはない。なのに、あたかも共和党政権に対し民主党政権が取って代わると大きな変化がやって来るような、しかもより良い変化がやって来るような錯覚を抱かされている。Changeとはまさにオバマのキャッチフレーズだが、果たしてそんなに変わるのか?
自体は変わらない。むしろ、ますますネオリベ化が進み、世界は金融全体主義に覆われてにっちもさっちもいかなくなるだけだ。
では日本ではどうか。
自民党に民主党が取って代わっても、大差ないのである。どちらも公明党の協力なしには選挙に勝てそうもない。それどころか、本当に自民と民主は対立しているのだろうか?実は対立軸はとっくに失われているか、そもそも対立などなかったのだ。
この全世界的に行われている茶番の中でメディアは、選挙に行こうと騒ぎ立てるが、ちょっと待て!と言いたい。
この世界をちょっとだけ変えるには、むしろ意識的に選挙を拒絶してみたらどうだろう?
選挙が成立しなければ、実は今在る民主主義という制度は幻想のイデオロギーであったことが逆にはっきり見えてくるんじゃないかな。
なんとなく投票したい人間もいないのに「取りあえず入れとくか」と考えるなら、この際思い切って、選挙なんかやめようぜ。1回選挙ってものが成立しないだけでも、大きな変化が起こると思うんだが、どうだ?
でたらめを真に受けるのはそろそろやめにしようぜ!
2008年9月28日日曜日
彷徨える時代 ーネオ・リベから遠く離れてー
最近、チョムスキー、ジン、フィンケルスタイン等のネオ・リベラルに一線を画す人々を集中的に読んでいる。ハイエクを基礎にした新自由主義という体制が如何に嘘と欺瞞に溢れているか、感じざるを得ない。
演劇で何ができるのか、と学生達に問うが、それは僕自身に跳ね返ってくる問であることは充分に承知している。この世界の財界、政府、官僚、メディアといった部分に対する経済と価値観の一極集中の中で、あからさまな拝金主義が、グローバリズムの名の下で行われている。
教育、文化、芸術、そのすべては本来利権構造とは相容れないジャンルだったはずだが、米国の映画や舞台を観れば、利権以外の何ものでもないことがよくわかる。勿論、この傾向は米国に限ったことではなく、全世界を暗い雲のように覆い尽くそうとしている。
そこで、演劇で何ができるのだろうか。
経済行為の要素は確かにあるにしても、拝金主義的傾向から遠く離れて、演劇行為を行わない限り、演劇ですら新自由主義的な市場の原理に食い尽くされてしまうだろう。
恐らく、「市場原理」以外の価値観を見出さない限り、すべては経済的利益のみで計られてしまうだろう。たとえば、充実した内容を持ったテレビドラマが意外なほど視聴率が低いという、ただその一点で失敗作の烙印を押されてしまう今の現状は、やっぱり歪んでいるのである。
演劇で何ができるのか、と学生達に問うが、それは僕自身に跳ね返ってくる問であることは充分に承知している。この世界の財界、政府、官僚、メディアといった部分に対する経済と価値観の一極集中の中で、あからさまな拝金主義が、グローバリズムの名の下で行われている。
教育、文化、芸術、そのすべては本来利権構造とは相容れないジャンルだったはずだが、米国の映画や舞台を観れば、利権以外の何ものでもないことがよくわかる。勿論、この傾向は米国に限ったことではなく、全世界を暗い雲のように覆い尽くそうとしている。
そこで、演劇で何ができるのだろうか。
経済行為の要素は確かにあるにしても、拝金主義的傾向から遠く離れて、演劇行為を行わない限り、演劇ですら新自由主義的な市場の原理に食い尽くされてしまうだろう。
恐らく、「市場原理」以外の価値観を見出さない限り、すべては経済的利益のみで計られてしまうだろう。たとえば、充実した内容を持ったテレビドラマが意外なほど視聴率が低いという、ただその一点で失敗作の烙印を押されてしまう今の現状は、やっぱり歪んでいるのである。
2008年9月27日土曜日
友に会う
俳優の青沼神対馬さんは僕の友人です。
互いにそれぞれの演劇観に基づいて演劇というものをこれまで行ってきましたが、久々に舞台をご一緒しようということで、稽古の合間をぬってお昼にお茶しました。
ランチも食べたけどね。
実は、僕はお酒が飲めません。人とお会いしたり、打ち合わせするときは、いつもコーヒーかお茶なのです。
というわけで、二十代で共演して以来、うん十年の付き合いですが、今だ変わらぬ静かに熱い人です。来年の芝居にはぜひ出て頂きたいと持ちかけると、即良い返事が返ってきました。
うれしいなぁ。
政権が変わろうと、二大政党になろうと、今がどうしようもない時代であることに変わりはありません。しかし皮肉なことに、演劇的にはどうしょうもない時代こそが、演劇の花開く時代なのかもしれません。時代と向き合わざるを得ない時、人は真のドラマを必要とするから。
テレビや映画もいいですが、舞台を是非観に来て下さい。
互いにそれぞれの演劇観に基づいて演劇というものをこれまで行ってきましたが、久々に舞台をご一緒しようということで、稽古の合間をぬってお昼にお茶しました。
ランチも食べたけどね。
実は、僕はお酒が飲めません。人とお会いしたり、打ち合わせするときは、いつもコーヒーかお茶なのです。
というわけで、二十代で共演して以来、うん十年の付き合いですが、今だ変わらぬ静かに熱い人です。来年の芝居にはぜひ出て頂きたいと持ちかけると、即良い返事が返ってきました。
うれしいなぁ。
政権が変わろうと、二大政党になろうと、今がどうしようもない時代であることに変わりはありません。しかし皮肉なことに、演劇的にはどうしょうもない時代こそが、演劇の花開く時代なのかもしれません。時代と向き合わざるを得ない時、人は真のドラマを必要とするから。
テレビや映画もいいですが、舞台を是非観に来て下さい。
2008年9月26日金曜日
風が吹いている
夕陽からはじめよう!
2008年9月25日木曜日
2007年9月26日水曜日
What the Night is for について
十一月の芝居について書いておこうと思います。
この芝居は不倫の男女を描いた物語です。
ああ、またかよ!と感じる人もいると思う。
それほど、不倫のお話というのは、ありきたりで手垢がべったりついた感じがします。
でも、と僕は言いたい。
このありきたりの中に、独自の世界観を見ることができたら、それは素敵なことなんじゃないかな、と。
僕らの生活は実際ありきたりです。口を開けば、学校でも社会でも、個性個性と繰り返される時代ですが、ありきたりであること、普通であること、平凡であることを、今はじっくり見据える必要があるんじゃないだろうか。そう思います。
これまで、非凡であることに憧れ、僕らはどれだけのことを失ってきたのでしょう。
自分の凡庸さに呆れ、自分の凡庸さを呪い、自分の凡庸さを認めたくないために、人は努力し、僻み、妬み、恨むのではないですか。
努力は大切ですが、それが凡庸さの隠蔽のためであるなら、恐らく虚しさだけが、やがてやってくるのだろうと思うのです。
人は誰もがあまりにも人間的で、あまりにも凡庸なので、言葉を失ってしまう。
だけど、もし、己の普通さ加減を受け入れることができれば、それこそが結果的にどうしょうもなく他とは違ったその人自身の人生を生きることになるのだと思います。
物語は、愛情を勘違いし、それ故かけがえのない愛情を失った男女が、普通の平凡な感情を取り戻すまで、精神の細部を抉り出すように描いていきます。
もしも、この物語の中でまったく覚えのないことが語られているとしたら、それはひょっとしたら、日々の暮らしの中で、すでに何かを失ってしまっているのかもしれません。
ひとつの演劇作品を構築していく中で、僕はたえず僕自身の人生を振り返らざるをえなかった。失ってしまったもの、或いは失いつつあるものを自覚せざるをえなかった。
これまでご覧頂いた、そして今後ご覧頂くことになる数々の僕自身の芝居も、どれほど遠い物語に思えても、実際は東京の郊外に家族と暮らす僕自身の不甲斐なくも情けないありふれたごく平凡な暮らしから生まれたものだということは確かです。
ごく普通という状況を、慈しみ味わいたいものです。
人生で学ぶべきことは、すべてそこにあるのですから。
この芝居は不倫の男女を描いた物語です。
ああ、またかよ!と感じる人もいると思う。
それほど、不倫のお話というのは、ありきたりで手垢がべったりついた感じがします。
でも、と僕は言いたい。
このありきたりの中に、独自の世界観を見ることができたら、それは素敵なことなんじゃないかな、と。
僕らの生活は実際ありきたりです。口を開けば、学校でも社会でも、個性個性と繰り返される時代ですが、ありきたりであること、普通であること、平凡であることを、今はじっくり見据える必要があるんじゃないだろうか。そう思います。
これまで、非凡であることに憧れ、僕らはどれだけのことを失ってきたのでしょう。
自分の凡庸さに呆れ、自分の凡庸さを呪い、自分の凡庸さを認めたくないために、人は努力し、僻み、妬み、恨むのではないですか。
努力は大切ですが、それが凡庸さの隠蔽のためであるなら、恐らく虚しさだけが、やがてやってくるのだろうと思うのです。
人は誰もがあまりにも人間的で、あまりにも凡庸なので、言葉を失ってしまう。
だけど、もし、己の普通さ加減を受け入れることができれば、それこそが結果的にどうしょうもなく他とは違ったその人自身の人生を生きることになるのだと思います。
物語は、愛情を勘違いし、それ故かけがえのない愛情を失った男女が、普通の平凡な感情を取り戻すまで、精神の細部を抉り出すように描いていきます。
もしも、この物語の中でまったく覚えのないことが語られているとしたら、それはひょっとしたら、日々の暮らしの中で、すでに何かを失ってしまっているのかもしれません。
ひとつの演劇作品を構築していく中で、僕はたえず僕自身の人生を振り返らざるをえなかった。失ってしまったもの、或いは失いつつあるものを自覚せざるをえなかった。
これまでご覧頂いた、そして今後ご覧頂くことになる数々の僕自身の芝居も、どれほど遠い物語に思えても、実際は東京の郊外に家族と暮らす僕自身の不甲斐なくも情けないありふれたごく平凡な暮らしから生まれたものだということは確かです。
ごく普通という状況を、慈しみ味わいたいものです。
人生で学ぶべきことは、すべてそこにあるのですから。
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