ティファニーで朝食を:1961
原作モノと呼ばれる映画や舞台やテレビドラマがある。
今や漫画原作絶頂期を迎えているようです。
ところで、「ティファニーで朝食を」という古い映画は、原作と映像作品の娯楽性の違いを考える上で、面白い作品だと思う。
オードリー・ヘップバーン扮するホリー・ゴライトリーはとんでもなく自由気ままな女。掴み所のない小鳥のような人だ。同じアパートの上の階に住む作家のポール(ジョージ・ペパード)はそんな彼女を観察しつつ、好きになってしまう。
映画を知っている人にとって、この作品は典型的なハリウッドのロマンチック・コメディーだと思われる。パンをかじりながら、ティファニーの前をウロウロするホリーの姿はこの映画の象徴でもあるんです。
でも小説をじっくり読んだ人にとっては、随分違ったイメージを持つと思われます。というのも、この原作を書いたトルーマン・カポーティは他の作品でもそうですが、単純なロマンスなんか書くはずもない特異な作家です。「冷血」という作品では、実在した猟奇殺人の犯人を個人的に面接し物語を構築していきます。この小説「ティファニーで朝食を」では、恋愛はロマンチックに成就することはなく、自由気ままなホリーという女性のなにものにも拘束されない奔放な生き方を皮肉な感じで描いています。最後は、作家の所に写真と手紙が送られてきて、彼女はどうもアフリカで原住民達と暮らしているらしいという、生きてんだか死んでんだかわからない、なんとも不思議な終わり方をします。小説のホリーは実はアフリカで死んでいたという伝説まであるほどです。カポーティは、個人主義的な過剰なアメリカナイズした自由を一種の狂気、ホリーという映画ではロマンチックだった存在の隠された「狂気」を描いてさえいるような気がします。
大事なのは、これは原作と映画がまるで違うのに成功している、稀有な例ということです。
最近、ハリー・ポッターの最新作を観てきた娘が言うには、どうも原作には書かれていなかった深い人間の感情と葛藤の描写があるんだとか。これが本当だとすれば、原作でわりとあっさりスルーされた部分を、原作ありきのはずの映画の方がむしろ深く追求しているという逆転現象が生じているようです。
娯楽の質は文学と映画では似てはいても、本質的には大きく違っているのでしょう。
基本的には同じストーリーであっても、媒体(メディア)が異なれば、効果も違ってしまうから。
「ティファニーで朝食を」はその効果を、映画と小説のそれぞれが最大限生かしているところで、成功してるのだと思う。
与えられた媒体(メディア)の特性を生かしつつ、異なったジャンルを行き来することができれば、それは楽しいに違いない、などと考えます。
「ティファニーで朝食を」はそのタイトルの甘さから敬遠するむきもありましょうが、原作と読み比べ見比べてみると、面白さが倍増するんですが。
どう?
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