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2009年8月5日水曜日

フロリダへ行こう!

真夜中のカウボーイ:1969


ジョーはニューヨークで金持ちの女のジゴロになって一攫千金を夢見ている。
ラッツォは道行く人を騙しながら、なんとかその日暮らしをしている。
そんな二人が、出会って、罵倒し合いながら、大都会で生き抜き、やがて光溢れるフロリダをめざす物語。

アメリカン・ニューシネマという言葉で、一括りにするのはなんとも陳腐なことかもしれないが、それでも、僕はアメリカン・ニューシネマとかつて呼ばれた作品達を愛する。
六十年代末期から七十年代初旬に創られたアメリカン・ニューシネマと言われた作品群にハッピーエンドはありません。そう、挫折と夢が報われない現実を描き、同時に不思議なほど心洗われる瞬間がある。最近のアメリカ映画が忘れてしまったリアリティーがあるのだ。

どうしょうもなく単純で疑うことを知らない田舎者ジョーを演ずるジョン・ボイトは、己の肉体だけを頼りにする愚か者。そして、ダスティン・ホフマン演ずるラッツォ(ネズミ野郎)は、足が不自由な上に肺に病を抱えながら医者にも行けない始末。だが、二人には徐々に友情が芽生え、やがて旅を供にすることになる。
なけなしの金で手に入れたチケットを握りしめフロリダ行きのバスに乗り込む二人。だが、弱っているラッツォは小便をもらしてしまう。死期がすぐそこまで迫っているのだ。
「ごめん・・・」
と、情けなさそうに言うラッツォの服を着替えさせてやるジョー。
走るバスの中。ジョーの隣でラッツォが死んでいる。
バスは走り続ける・・・。

都会の挫折を描くだとか、叶わぬ夢を描くだとか、現代生活の虚しさを描くだとか、言葉ではなんとでも言えるだろう。でも、そんな紋切り型のステレオタイプの表現ではこの映画の本質をとらえることはできない。おそらく、ニルソンによる主題歌「噂の男」を噛みしめることで、この作品の核心に触れることが出来るのでないかと思う。

『噂の男』ニルソン



みんなが僕のことを噂してる
何を言ってるのか聞こえないよ
こだまだけが僕の心に響いている

見つめるのを止めた人々
僕は彼らの顔を見ることが出来ない
彼らの目の影だけが

僕は太陽が輝き続けてるところに行くんだ
そぼ降る雨の中
天気が僕の服を包んでくれる場所に行く
北東の風を後にして
夏のそよ風に浮かぶ
そして海原に乗り出すんだ 石のように

僕は太陽が輝き続けてるところに行くんだ
そぼ降る雨の中
天気が僕の服を包んでくれる場所に行く
北東の風を後にして
夏のそよ風に浮かぶ
そして海原に乗り出すんだ 石のように

みんなが僕のことを噂してる
何を言ってるのか聞こえないよ
こだまだけが僕の心に響いている
僕は君と離れたくない僕の気持に背きたくない
いやだ、僕は君と別れたくない
君と離れたくない僕の友情はどこに行ってしまうんだよ

♪(ROCKSさんより転載)


最初、ボブ・ディランに決まっていた音楽だったが、上がりが遅かったので、この曲に急遽差し替えられたという話がある。これもまた、運命かも。この曲がなければ、この映画はもはや成立しないのだから。
この偶然の産物のように現れた音楽のおかげで、この映画もまた人生が旅であり、人間はこの世界の旅人なのだという普遍のテーマに突き動かされていることに気づかされる。
情けなくも必死の「生」があり、惨めながらも穏やかな「死」がある。
バスの中で、窓に頭を傾けて死んでいるラッツォの姿と、歯を食いしばりながら前を見るジョーの姿に、この映画の描きたかったすべてが見える。

すなわち、「それでも、人は生きなければならない。そして、やがて自分の死を受けれよう。泣くな。前を見ろ」

抗うことが人間のヴァイタリティーだと思いがちだが、受け入れることもまた人間のヴァイタリティーに違いない。受け入れることもまた必死さを伴うから。必死だからこそ、受け入れざるを得ないから。


Midnight Cowboy: Opening


Midnight Cowboy Theme by John Barry

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