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2009年6月20日土曜日

イランという国で

太陽は、ぼくの瞳The color of paradise

二十代の初頭、ある人の薦めでイランに通訳の仕事で渡航する話がありました。

残念ながら、突然の戦争の勃発と共にペルシャ湾が封鎖され、その話は流れてしまいました。

いわゆる1980年から八年続いた「イラン・イラク戦争」、第一次湾岸戦争の頃のお話しです。

イランとイラクの区別もつかない僕には、イランはまったく遠い最果ての国のような気さえします。日本の方がFar Eastですから、日本の方こそ最果てなのでしょうが。

90年代も終わりにさしかかる頃、僕はひとつの映画を観ました。
それが
マジッド・マシディ監督の「運動靴と赤い金魚」でした。

今も政情揺れる不安定な状態にあるイランですが、僕らは映画を観るべきだと思う。
なぜなら、そこには失われつつある「人間の暮らし」が描かれているから。
アメリカの超大作映画が失ってしまった「日常性」や「生活」という、人間の営みの最も愛しい部分がイランの映画にはあります。

「運動靴と赤い金魚」では妹の運動靴をなくしてしまったばかりに、ひとつのボロボロのスニーカーを妹と共有しあって、必死に走り、やがてマラソンの大会に出ることになる少年を描いています。少年の願いは単純で小さなことです。大会で二位になって賞品の運動靴をもらうこと。でも、残念ながら、少年は足が速く、必死だったので、一位になってしまうのです。賞品をもらえず家に帰ってきた少年を、悲しいはずの妹が優しく迎えます。そして、池の金魚たちも・・・。

『運動靴と赤い金魚』:Children of Heaven



ここにあるのは、貧しいけれど必死に生きる人々の明日へ向かう意志です。
そしてそれは、勝ち組みであることを望み、株主になろうとしたり、金融で一儲け企んだりして勝ち組みに安住しようとする世界では失われてしまった価値観なのです。
国も文化も違う僕らは、それでも共通の意志、愛する気持ちや、人や物を大切の思う気持ちや、損得勘定を越えた人間関係の可能性といったものを持ち合わせている。
それに対し「で、なに?」という問いかけは、市場経済型の価値観しか持ち得ないときに生じてくる一種の病です。
イラン人、
マジッド・マシディ監督の作品は、そんな病に対する処方箋で溢れているような気がします。
イランという国を僕らはどれほど知っているだろう?
ほとんど何も知らないでしょう?
それでも、彼の映画が胸に突き刺さるのです。
それが、真のドラマの持つ力だ。
そう思います。

もうひとつ、「太陽は、ぼくの瞳」という映画があります。同じマジッド・マシディ監督の作品です。盲学校に行っている少年が父と共に帰郷する物語。
父は目の見えない息子を恥じている。再婚しようとする父にとって息子の存在は恥そのもの、邪魔なのだ。息子のせいで、不吉な前兆と言われ破談するのを父は恐れる。だが、皮肉なことにそんな父を説得しようとした祖母の死によって、父の再婚話はなくなってしまう。盲学校の寮へ息子を連れ帰る途中、息子は川で溺れる。そして父は、一瞬迷うのだ。このままにしておいたほうがよい・・・厄介払いできる。しかし、物語のラスト、本当に素晴らしい奇跡が起こります。それを観て欲しい。


『太陽は、ぼくの瞳』:The color of paradise



今アメリカは核開発を口実に、こんな国を先制攻撃しようとしています。
僕たちは、一人一人、そろそろ目を覚ましませんか?
国や資本家の都合ではない、僕らの価値観を見出しませんか?
そんなときが来ているような気がします。

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