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2009年6月19日金曜日

三島と東大全共闘



しかし、まぁ、1969年5月13日に東大の【焚】祭で行われた三島由紀夫と東大全共闘の間で行われた対話を見ると、いろんなことを感じるな。

まず三島由紀夫という作家の真面目さと学生の一部のフザケ方の違い。
やがて、この後、三島は責任をとって自死するのに対して、学生の一部は、サブカルチャーという名で八十年代以降の価値観を形作る中心的な存在になっていく。あくまでもサブカルチャーなんですが。

その代表はビデオに登場する人物「全共闘C」であろう。
この全共闘Cは「あらゆる既成の枠組みの破壊をめざす自由」を主張する。しかも、とんでもなく観念的な言い回しで、へらへら笑いながら、三島に絡んでいく。
まさにこの時代に全共闘Cはポストモダン的に脱構築をめざしているのである。
あらゆる意味も価値も認めない。ナンセンスだけが自由であり、自由である者だけが勝者なのだ。

後にCはこの時三島を論破したと主張しているが、論破などしてはいない。まったく議論にも会話にすらなっていないだけである。三島はこのナンセンスを大らかに許したのである。
しばらくして、このCはアングラ演劇の雄となり、演劇の破壊に努めている。
へらへら薄笑いを浮かべながら、偽善の60年代を通り過ぎ、過渡期の70年代をサブカルチャー、あるいはポップカルチャーの主人公として過ごし、薄ら寒いなんでもありの八十年代を満喫し、それから数十年過ぎた今も彼Cは観念的な皮肉を言いながら笑っているのだろうか。

生真面目だった全共闘Hは少し前に亡くなった。

69年に小学生だった僕は、二十代を過ごした八十年代の責任をとろうと思っている。

全共闘Cは、六十年代以降の責任をとる気はないのだろうか?
僕には、全共闘時代をとてもロマンチックに思い返すことができないのだ。
幼かったからではない。
あの虚しい八十年代の下準備が、六十年代に為されていたと思うからだ。

つくづく思うんだ。
この全共闘Cのような人間は決してMalcolm Xのような生き方は理解できないんだろうな。
いや、わかりすぎ、とか言いながらへらへら笑うんだろうな。

このビデオを見る度に、僕は時代の連鎖を感じる。
過去はまだ終わってないと思うぞ、C。

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