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2009年3月18日水曜日

『泥の河』を忘れまい


(C)木村プロダクション

八十年代という、ニューウェーブの名の下に限りなく広がる虚無の時代がはじまろうとしていたまさにその初頭、一本の映画が公開されました。

それが『泥の河』です。

まったく時代の流れとは逆行した徹底的にリアリズムで作りこまれたこの作品は、モノクロの光と影で、豊かさに狂い始めた時代にあって、人々の無意識に語りかけていた。
「本当に生きているのか?」と。
自主制作で作られたこの作品の強さは、人間の本質へ迫ろうとするあの作り手の誠実さから生じているのだと、僕は思っています。
原作は宮本輝。監督は小栗康平(そして、これが彼の初監督作品でもありました)。

少年たちのひと夏の出会いと別れ。それは、時にグロテスクであり、時に恥ずかしく、時に心が震え、時に恐く、そして切なく、はかないものでした。
だからこそ、美しかった!
沢ガニに火を付けるシーン、夏祭りで落とした十円玉を必死にさがすシーン・・・シーンの一つ一つが心の中に刻み込まれています。

映画のラスト、どこまでも、友達の乗った舟を追いかけて走る少年の姿は、かつての僕であり、誰もがどこかで経験した出来事と重なってくるような気がします。
そこには、個人的経験が普遍化する一瞬があるのです。

金網にすがりながら少年は友の名を呼ぶ。
返事はない。
人生の出会いと別れが、これほど鋭利な刃物のように容赦なく描かれたことがあっただろうか。
そうだ、ただひとつ、思い出した別の映画がある。
それは「禁じられた遊び」。
少女が少年の名を呼びながら、雑踏に消えていくラストシーンは、僕の中で「泥の河」のラストシーンと重なる痛切なものだった。
「泥の河」という作品は日本における「禁じられた遊び」あるいは「シベールの日曜日」だと思う。

「三丁目の夕日」もよいけれど、この映画を観て欲しい。
名作というのは、実は時代と逆行するようです。その時代の中で多くの人々があえて創り出そうとしないものの中にこそ、次の時代へ続くものや、その時代に対する批評から生まれた作品があるのかもしれません。






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