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2006年7月1日土曜日

たいせつなもの

父と母が離婚することになった。
少年は小学3年生だった。幼稚園の年長さんになったばかりの妹がいる。

父と母が夜になると激しくなじり合っているのを少年は聞いた。
父が母以外の女性と暮らすために家を出ようとしていることも知っていた。
だが、彼は父が好きだった。
父は彼の憧れだった。いつか父のように尊敬される立派な大人になりたいと思っていた。
母とぶつかる父を少年は許していた。

父は少年に多くを求めた。
学校の成績をはじめとし、スポーツも誰よりも優れているように、強く求めた。
必死に父の理想に向かって少年は生きた。

離婚調停の日。
父は少年を、母は妹をそれぞれ引き取ることにした。それは両親の話し合いの中で決まったのだ。
少年は裁判所で父と母の調停の様子を見守っている。そして、妹をぎゅっと抱きしめた。
話し合いが終わり、父と母が二人の前にやってくる。
父の手が少年に差しのばされる。母の手が妹へ。

少年は黙っていた。
ただ黙って、幼い妹の肩を抱き寄せていた。
少年は床を見つめ、妹を抱いていた。

少年は思った。人は上手に生きていくために嘘をつくんだ。
やがて、少年の腕から力が抜けた。
妹は母の手にを引かれて行く。少年は叫びだしたいのを必死にこらえる。
「行くぞ」
父の声がした。
少年は立ち上がり、外に止めてある車へ向かう。
うつむきながら歩く妹の姿が曲がり角のところで消えた。

少年の腕に、妹の柔らかい感触だけが残っていた。
その日、少年は大切なものをなくした。


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