僕には友と呼べる人はそう多くない。
でも、それでいいと思っている。
これまで多くの人と知り合ってきたが、友と呼べそうな人はそう多くないのだ。
友は数ではない。それは確かだ。
気が合うとか、趣味が同じだとか、職業が近いとか、実はぜんぜん関係がない。
もちろん、不意に出会いはやってくるので、自分の生活圏でしか人は出会えないのだが。
人はそもそも孤立している。
しかし、それは表面的な世界にすぎないと思う。もしも、完全な孤立があるとしたら、それは絶海の孤島で一人漂着するとか、この都会のアパートの一室で一人餓死するとか、銀座や渋谷や新宿の大通りで、人並みに揉まれながら感じる孤立である。人は表面的な関わりを持たないという意味では完全に孤立している。だが、と僕は思うのだ。
だが、僕らの孤独は重要だ。
孤独でなければ、人の痛みを感じることはできないから。
孤独でなければ、もう一人の孤独な人と出会うことはできないから。
孤独でなければ、自分がここに生まれた意味を見いだすことは到底不可能だから。
孤独でなければ、愛するということが何なのか、永遠にわからないから。
僕は幼い自分の娘たちに孤独を感じる。
その姿は悲しいというより、人間の本来の存在形態だと思えるのだ。
一人遊びに夢中になるとき、人は充足する。一人遊びに夢中になれないとき、人は不安になる。
僕は娘たちを見るたびに、一人遊びをし、一人遊びに熱中する人間になりたいと心から思う。
ともだちは、一人遊びの中で出会うものだ。
実際、人は共感の次元を生きているのだ。
僕の喜びは、彼や彼女の喜びであり、僕の怒りは、彼や彼女の怒りである。
そして、僕の悲しみは、彼や彼女の悲しみである。
それは、時も場所も越えている。共感の次元に境界線はない。
その意味で、僕らは孤立してはいないのだと僕は思っている。
耳をこらし、眼を澄ますこと。
見えてくる、聞こえてくる様々な感情に魂をひらくには、孤独である必要があるのだ。
僕は一緒にコーヒーを飲んだり、メールをしあったり、食事をしたり、何年かにいっぺん会ったりする数少ないともだちみんなに感謝している。
ありがとね、みんな!
.......Morihei Ueshiba......medicine for a sick world.
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