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2005年11月24日木曜日

生きる力

僕は一人の愚者として生きている。
そして、この世のあらゆる人が全て愚者なのだと確信している。
これは相対主義を言っているのでない。絶対的善に対し相対化しようとする昨今の発想もまた、その根っこに愚かさを抱え込んでいる。
確かなことは、僕ら人類は、あまりにも未熟であり、未だにその愚かさに気が付かぬほど愚かだということだ。
文明であろうと、社会であろうと、国家であろうと、それは賢明さの結果ではなく、むしろ全て愚かさの結果ではなかったか。
文明のありとあらゆる要素、すなわち、制度だろうが、システムだろうが、テクノロジーだろうが、全てが倒錯しているのである。
親が子を育てるのではない。親が子を持つことで成長できるのだ。教師が教えるのではない。教師が日々学ぶまず最初の学生なのである。創り出すものは、創られ、壊すものは、壊されているだろう。
この逆転し倒錯した現状に対する認識と発見を「愚者の精神」と呼びたい。
そして、己の愚者の精神に気が付くことは、覚醒の第一歩である。
通常の一般認識を逆方向から眺め、捉え直してみれば、僕らが日々をどれほど倒錯させて生きているかが分かるだろう。人が希望を声高に語るとき、僕らは絶望へ突き進んでいることに気が付かねばならない。
人が絶望を呟くとき、その声に耳を傾けることができれば、それは希望への扉なのである。
この世には誰一人として、心身共に健全である人間などいやしない。
ハンディを背負うことのない人間など、一人だっていやしない。
誰もがどこかが歪み、不完全であり、不安であり、コンプレックスを抱えて生きている。
重要なのは、歪んだ己を見つめる勇気があるかどうかだ。
それは百人の敵に囲まれて玉砕覚悟で塹壕から這い出る勇気とは違う。三千メートル上空からダイブする勇気とも違う。
ごく普通の、ごく自然な、己の凝り固まったプライドをかなぐり捨てる勇気のことだ。
愚か者になる勇気のことだ。
もし、愛というものがあるとすれば、それは自己愛から始まるのだろう。
しかし、その自己愛は自己保身や自己満足のことではない。
己の馬鹿さ加減を、恥も外聞もなく見つめる態度。そして、外に目を向ければ、他に対する愛は、恐らくとてもとても共感のこもったものになるだろう。
他者に対する愛はそこから始まる。
愚か者こそが、最も共感の次元に到達する可能性のある者なのである。
愛は、愚か者の栖なのである。
知性だとか、知識だとかによりかかっている裡は駄目だ。知性や知識は、分ける行為である。無限に差異を生む行為を有り難がっている裡は、人は分かった風な口をきく小僧に過ぎない。
分けることを止めたとき、異なった事象に共通項を見いだしたとき、人はほんのちょっと小僧から脱することができる。少しは素直な餓鬼に戻れるのである。
知識は積もり積もった過去からやってくるが、智恵は未だ知らぬ未来から光としてやってくるのだ。智恵の光は分けることを知らない。ただ照らしだし、全く共通項がないと決めてかかっていた事柄の、その共通項に気づかせてくれるだけなのだ。しかも、不意に。
光を感じていたい。
愚かさとは、己が光源であることの自覚でもある。故に、全ての出発地点なのである。
愚かさの住まう場所では、ありとあらゆる政治も宗教も科学も哲学も、全て芸術に近づく。考えてみれば、科学にしても、政治にしても、宗教にしても、哲学にしても、究極的には、みな物語であり、やがて詩となり、それは絵画や音楽へ近づくのではないか。
その意味で、愚者の精神とは芸術的精神の謂いである。
僕らは絶えずこの「生活」とか「人生」という作品を創り出している。もがきながら、ダンスを踊っているのである。僕らはもっともっと踊らなくてはならない。小利口な冷笑はダンスに似合わない。
ネアンデルタール人は、現代人よりはるかに愚かだったが、はるかに幸福だった。
それが彼らの墓に見ることが出来る。
彼らの墓には、遺体の下に綺麗に花が敷き詰めてあったそうだ。このシンプルな行為は現代人の献花にはない単純な愚かさが生み出す優しさがある。ここには経済的な観念が皆無なのである。
僕らはルソーが夢見たほど単純に原始に戻ることなどできない。しかし、かけがえのない愚かさを自覚することはできる。人間の本質は愚であり、その上に、後天的人格が被さっているに過ぎないのだ。本質は三歳ぐらいからほとんど変化していないように思う。変化しているように見えるのは、外側の人格と呼ばれている一種の服のようなものなのである。
他人の前に、己の愚かさを見よ。
そこに己の本質があるから。
明日に向かって生きるな。
今が明日を生み出すのだから。
この一瞬一瞬が、蘇る瞬間である。
生きる力とは、愚か者として蘇った者に与えられた、愛し、喜ぶ力のことである。

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