Pages

2010年12月19日日曜日

くつやのマルチン

からし種シアター『くつやのマルチン』
昨日、仕事の合間を縫うようにして国立で一本の舞台を見ました。

からし種シアターの『くつやのマルチン』です。
トルストイの高名な物語です。年老いた靴屋のマルチンはもうだいぶ前に愛する妻と二人の子供達を亡くした男でした。
ある晩、彼の前にイエスが現れるという声が聞こえたので、楽しみにしていた彼は翌日、窓から見る人々に声をかけていきます。
人はそれぞれ何か抱えて生きていますが、マルチンは優しく一人一人に接していきます。
なのに、イエスは現れなかった。
イエスはどこにいたのだろうか?
出会った一人一人がイエスそのものだった、というお話。

僕はこのわずか一時間の小さな小さな劇の所々で涙を抑えることができませんでした。
それは、まずマルチンという存在が、実在したドイツの靴屋にして予言者であった「ヤコブ・べーメ」を彷彿とさせるところ。
教育がなく、ひたすら靴職人として地道に生きていたヤコブ・ベーメがある日突然神の啓示を受けたという実話は、この主人公マルチンに確実に投影され、美しくも力強く生まれ変わっていたと思います。
そして、マルチンが死んだ息子を思い出すとき、幼かった息子がクリスマス・プレゼントを見て目を真ん丸にして喜んだというその出来事をごく自然に語るマルチンの姿に、僕は山田洋次さんの「息子」という映画のエンディングを思い出していました。東京から戻った三國連太郎さん演ずる年老いた父親が誰もいない暗い家の玄関を開けたとき、何十年も前の家族の姿を見たあの場面です。
息子達は大きな声で笑い、亡き妻は笑顔で熱々のご飯をよそっている、そんな風景をたった一人になった老人は幻想のように見るのです。最も心を熱くする素晴らしい場面でしたが、靴屋のマルチンを演じる中村元則さんの語る一言はそれに勝るとも劣らぬ胸に迫る追憶の場面でした。

人はパンのみに生きるのではないと誰もが言いますが、現在は稼ぐ人間が正しいのであって、稼がないもしくは稼げない人間は「駄目」なのだと厚顔無恥にも言い切ってしまう世の中です。何とも残念な世の中になったものです。稼ぎのいい商人ばかりでは世界は豊かであるはずがない。商人以外は全て消費者しかいなくなってしまうではないですか。

トルストイの残したこの物語は単に一人の敬虔なキリスト者を描いたのではなく、いつの世にもつい軽んじられ失われゆく「分け合う」というとても小さな、しかしながら決定的に生きることと結びついた人間の「存在の条件」の重要性を伝えているのだと思います。

政治でも経済でも、日常のあらゆる場面で「分け合う」ということが現代ほど失われてしまった時代はなかったのではないですか。
いつから僕らはこんなに意地が汚くなったのだろう。

僕がこの小さな芝居から感じたのは、人間の本当の「品格」についてでした。
国家でも政治でも経済でもない、人間の品格が壊れてきているのではないですか。
ひとりの靴屋のマルチンになりたいものです。マルチンという人物の持つ素朴さこそが人間の真の品格そのもののような気がします。
このひねくれた時代にこんな作品が上演されることの意味を僕は感じます。

からし種シアターのみなさん、お疲れ様でした☆
音楽も観客とのコミュニケーションもすべてがとてもいい舞台でしたよ!

賛美歌320番 <加賀屋玲 主よみもとに近づかん>

0 件のコメント:

コメントを投稿