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2010年8月5日木曜日

縄文の共鳴

キリロラ☆ライブ

昨日はワークショップの後、高円寺の新しい劇場「座・高円寺」に行ってきた。
縁あって知り合いのキリロラさんのライブに顔を出す。

いやぁ〜よかったな!!

音楽が呼吸であることを感じさせてくれる唄と演奏と舞でした。
縄文をテーマに古代日本の魂を掘り起こそうとする試み。その試みは劇場という閉塞された空間にもかかわらず、空気の流通を起こし、風を吹かせたのだった。
静かな始まりと土笛や笙といった土俗的な民族楽器のせいで、奥ゆかしさと静謐さを感じさせますが、やがて火の音楽に転じたあたりで、チェリストの激しいエレクトリック・チェロの音とグラインダーでチェロをこすって火花を散らすあたりで、単なる大人しい民族音楽の域を軽々と超えていく。
個性のまるで違うミュージシャン達が、共通の音を求めて共鳴しあうそれこそが縄文的だと気がついた。
「共鳴」
本来楽器ではないはずのグラインダーの轟音でさえ、キリロラの限りなく透明に近い歌声と共鳴するのだ。
この共鳴の中で、人はどこまでもリラックスする。不思議だ。本当のリラックスはカオスのような音の共鳴の中にあったのだ。
古代の日本語が想像の森の中で木霊する。
音楽は芸術の一ジャンルではなく、むしろ生そのものだということがわかる。
言葉は息とともにあり、呼吸の伴わない言葉は言葉ではないことがわかる。
言葉を使う者も、音楽の呼吸に敬意を払わねばならないと思う。
というのも、なにものかに書き込まれた文字も、その文字を書いた人間の息吹の発露なのだから。

静寂と激しさを行き交いながら「共鳴」する魂の在処に気づいたのでした。

そうだ。
「共鳴」は「共感」のもう一つの謂いであり、僕ら人間精神の本質なのだ。
実は数日前まで大学の教室で共感について講じていたのだが、キリロラを観て聴くことで、「共鳴」という、より人間精神の原質にふさわしい語彙を手に入れたような気がする。

遙か縄文の時代に置き忘れてしまった人間精神とは、己の外側の自然や人間と「共鳴」できるというリアリティーだったのかもしれない。
劇場を後にしながら、僕はそんなことを考えていた。

☆上野火山☆

kirilo'la' いろはうた~アワの唄

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