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2009年12月21日月曜日

消費者という名の桎梏

現在仕事中。

窓の外は今日も気持ちよい青空です☆

頭によぎるあれこれを、ちょっと書いてみますね。


先日、テレビで「良質な番組(ドラマ)を観たければ、CS(有料放送)を観なさい」と、ある司会者が述べていました。まるで、ジョージ・オーウェルの登場人物のようでした。


民放と言えども、CMによって消費行動が伴うので、決して無料(ただ)の放送を視聴しているというわけではありません。ましてや日本放送協会の放送は、昨今企業の宣伝を巧みに埋め込んだニュースを朝から晩まで流しているように思えるのは僕だけでしょうか?すなわち、視聴する料金を支払った上で更にCMを擦り込まれているという状況です。

その上で、更に良質の番組を視聴するために別立てで課金されるんですね。

どこまでお金を払えばいいのだろう。観なけりゃ払う必要はないよという声が聞こえてきそうです。勿論、必要のないものは観ませんが、民放のCS放送の方が良質だとしたら、その他一般の番組は「手抜きです」って言ってるようなもんじゃないですか?ですよね?

実に不思議なことです。こうして僕らはたえず消費行動に駆り立てられているんでしょうね。

宮台の言った「まったり生きろ」というのは、まさにこのことだったのだな、とあらためて思います。


というわけで、今、世界のあらゆる部分で、市場経済の思想が行き渡り、国民であれ市民であれ、町民であれ村民であれ、小さな部族の一員であれ、全ての人は押し並べて「消費者」になってしまいました。

良いサービスを受けたいのなら、それ相応の料金を支払わなければなりません。当然です。

ですが、情報に対するアクセスや、最低限の基礎教育や、必要最低限の生活のインフラ、乃至はライフラインの確保、といったものは、消費行動などではなく、生活の基盤です。

しかしながら、食物の供給からはじまって、生活の細部にわたって今や市場経済の市場の競争というやつに人々はつきあわされ、右往左往しているだけのようです。

我々は今や選んではいません。与えられるのを待っているだけです。なぜなら、それこそが消費者の望ましい消費行動なのですから。


消費行動の中に「格差」が見え隠れするのです。

人は常に「差異」を抱えて生きている。

しかし、その差異を格差とは呼びません。格差は「消費社会構造」に特有のヒエラルキーのことでしょう。勝ち組み負け組という価値観は、芸術や文化には本来基本的には存在しないものですが、そうした分野にさえも「消費社会」が入り込んでくると、途端に芸術や文化の勝ち組み負け組が生まれてきます。たとえば、どこかの密林の奥地にいる部族の芸術作品と、ヨーロッパのルネサンス期の芸術作品と比べて、どちらがより勝っているなどと誰が言うことができますか?

にもかかわらず、「市場原理」の基づいた「消費社会」では、「売れる方が勝ち」ということになる。格差とは、たかがそんなものです。そろそろ目を覚ましたいものですね。


競争は素晴らしい人間生活の活力を生み出すエンジン部分です。競争なくして何も生まれません。

しかし、市場経済プラス消費社会という尺度で過度の競争を生みだし煽るのは、狂気の沙汰ではないでしょうか。


人を「消費者」としか観なくなったとき、ドラマに携わる人間にとって、真の観客、すなわち「共感を通して見守る観客」を失うのだということを肝に銘じておきたいと思います。

僕は「消費者」である前にまずは人生の「観客」、「買う者」ではなく「味わう者」、でありたいと思います。


☆上野火山☆

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