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2009年10月8日木曜日

青春の殺人者

『青春の殺人者』1976 ATG

1969年10月30日、千葉県市原市で実際に起こった事件に取材した芥川賞作家中上健次の小説『蛇淫』をもとに、両親を殺害した一青年の理由なき殺人を通して、現代の青春像を描き上げる。脚本は元創造社のメンバーの一人で、作家に転向以来五年ぶりに脚本を執筆した田村孟、監督はこれが第一回監督作品の長谷川和彦、撮影は「祭りの準備」の鈴木達夫がそれぞれ担当。(goo映画より)


監督の長谷川和彦さんの作品は二本しかない。「太陽を盗んだ男」と「青春の殺人者」。
暗い話です。
今の時代、こんな暗い話は映画にはならないかもしれない。だからこそ、この三十年近い時代の流れの中で失われたものの大きさを思います。

あらすじはこちらでどうぞ!→「青春の殺人者」あらすじgoo

ゴダイゴの鮮烈な音楽と千葉のコンビナートの風景から始まるこの映画は、内側にぎらぎらした何かがありました。
雨のシーンも、雨粒がねっとりとして肌に絡みつくような不快さがありました。
そう、この映画は不快の塊のような作品です。
でも、音楽が素晴らしく洗練されていて、今聴いても古さを感じないと思う。
つまり、物語のリアルな不快さと、音楽の洗練で、この映画は「青春」の持つ暗い影の部分を観念ではなくドラマとして切り取り提示してくれていると思うんです。

不思議なほど、観ていて苦しい映画なのに、忘れられない。
主演の水谷豊さんの、全力疾走に、共感を覚えます。
本当は、今でも、いや今だからこそ、現実にどこかに存在する物語だと思います。たぶん、悲惨さはあの時代の比ではないような気がする。

娯楽映画として、観て楽しい映画もいいけれど、この重苦しい、どこか狂気をはらんだような世界、でも確かに存在する状況、そして目を逸らしてはいけない場面を、もっと観たいと思います。
おそらく、今は今の時代の作り方があるのだと思うけれど、僕自身、作るなら違った作りになるはずですが、それでもこの種のドラマは今こそ必要だと、心底思うんですが、どうですか?

シェイクスピアの時代から、あるいはもっと以前から、人類の重要な成長物語の原型「親殺し」が語られている映画です。

ただし、現実の事件「佐々木哲也事件」は「冤罪」の可能性を今も疑われています。
従って、この映画の見方は、あくまでもフィクションとして観る必要があるとは思います。
そして、同じドラマを生業にするものとして、作品が現実に存在する人物を不利な立場に追い込んだとすれば、それもまた作る者の責任を思わざるを得ません。
この映画の公開の後、佐々木哲也氏は「死刑」が確定しました。

原作の中上健次氏ですら、新聞で読んだ三面記事をネタにした、と述べています。充分な配慮があったとはとても思えない。でも、そうした勢いがなければ作品も創作するエネルギーは出てこないのも事実です。

だからこそ、どれほど現実をモチーフにしていようと、作品とは「フィクション」であるという感覚だけは見失ってはいけないだろうと思います。
事件と映画は別ものです。ドラマとは、どこまでいってもフィクションであり、神話なのです。


『青春の殺人者』予告編

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