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2009年9月9日水曜日

InclusionとIdentify

昨日と今日は二冊ほど本を一気読みした。
両方とも、宮台真司氏の作品。
同世代の中でも団塊に媚びることのない数少ない批評家・社会政治学者だと思っています。

1冊目、『日本の難点』幻冬舎新書。


新書は初めてらしいですが、まさにチャート式。森一郎著「英文法の原点」を思い出しました。
わかりやすい理解しやすい極力平易な言葉遣いで、現代日本の抱える問題42項目の論点を明確に示してくれています。
彼の立ち位置は、明らかにネオリベ的(新自由主義的)です。ネオコン(新保守主義)ではなくてネオリベです。何故なら序文にも述べてあるように、9.11以降のアメリカの対処の仕方は杜撰であった、という言い回しから、あの出来事を彼は意識的か無意識的かわかりませんが、米国政府の政治的手際の悪さで説明を済ませている。ネオリベは肯定するが、ネオコンを否定するわけです。更にオバマ大統領に対する期待感が述べられたページ数から見ても、ブッシュの取り巻きであるネオコン連中の馬鹿さ加減に対し、オバマの周辺のクールさに対する期待と共感から、宮台真司氏は確かによい意味のネオリベラリズムの人であると思う。そして、同時にある種のアカデミズム特有のナイーブさも感じる。

この本の中で語られている「相互扶助」と「包摂(Inclusion)」という中心的なタームは、僕が「共感の次元」というイメージの中で、Identification(他者の中に自己を見る視点)と言っている概念と似ているような気がします。
単なる共感は、同情や「わかるわかる」程度のものですが、全体に含まれ(Inclusion)、自分自身がその一部であるという感覚(Identification)は人間存在にとって欠かせないものです。かつてあらゆる共同体(Community)が内包していた要素なのですが、今はほぼ完全に壊滅してしまっています。
そのような状況から「フラット化」や「コミットメントの脱落」、つまりバラバラな変化に対する後追い姿勢が生まれてきて、中心点や核を持たない、あるいは持つ必要のない人間が生まれてくる。
その結果、包摂(Inclusion)から排除(Exclusion)へと向かうことになる。
彼の主張はその逆をめざそう、ということなわけだ。

僕は概ね彼の議論を鋭いと思うし、納得するものですが、ただし、彼の衆愚政治に対する選民主義的エリート主義的方向性を示しながら、民衆の自己責任論に収斂していく辺りに、ネオリベ特有のズルさあるような気がしてならない。
いわゆる、単純な企業批判や資本主義批判や陰謀論ではあまりにもナイーブすぎて、アカデミズムから見れば初歩的すぎるだろう。しかし、時代の「価値観」の問題ということになれば、「企業に責任はない」という言い回しは逆に本質を見ることのない、愚かなる民衆の自己責任ですべて片付いてしまう単純さに陥っているような気がする。
問題は、我々の現在のごくありふれた損得勘定がすべてであるかのような、包摂から程遠い紛い物の価値観が、いったいどこから現れてきたのか、であろう。
それは間違いなく、ネオリベが象徴的に持つ自由観と、それに付随するグローバル化、まさにアメリカを中心とした中華思想の生み出してきた価値観なのではないかと思う。
この本では、その点に対する批判が皆無であり、米国の機嫌を損なわず上手く付き合うということが前提であるということが、オバマに対する肯定的な視点からよくわかる。
米国ではオバマになって、日本は民主党になって、きっとよくなる、という彼の視点こそナイーブな感じがするのは気のせいだろうか。
彼のあえて語らない部分にも問題はあるような気がする。ネオリベラリズムの持つ問題が、単なる批判じゃしょうがないし、企業が悪い、ネオリベが悪い、だけじゃ埒があかないどころか問題が見えにくくなるけれど、解決済みの問題であるわけもない。
アメリカ流のネオリベしかない、もう後戻りはできない、という議論は、実に「官僚的」な発想だと思うのだが。彼の中の「官僚的なるもの」が顕在化しつつあるのかもしれないな。

2冊目、『<世界>はそもそもデタラメである』。


雑誌「ダ・ヴィンチ」に掲載されていたエッセイをまとめたものですが、これがなかなかいいんだよ!
「日本の難点」よりこっちをお勧めします。ほんとに。
同世代の中でなかなか共感を持てる相手がいなかったのですが、久々に鋭く共感できる「映画評論」に出会った気がします。朝日新聞の掲載中の沢木耕太郎氏の映画評論も最近の映画批評では傑出した作品だと思いますが、宮台氏のこのエッセイも素晴らしい☆

54回分の掲載原稿から出来上がっているので、かなりの大著ですが、選び抜いた感のあるトピックです。
無数に引き出したい部分があるのですが、二つほどメモしておきたいと思う。
ひとつは、
『「かけがえのないことがあったから、かけがえがない」という命題を否定し、「どこでもある話だからこそ、かけがえがない」と反転するためである。祝福された世界が祝福されるのは当たり前だ。そうではなく、低俗な世界がそれゆにこそ祝福される。ラテン的な世界観である」』
メキシコ映画「天国の口 終わりの楽園」についての言及である。
この映画は、頭の中がセックスでいっぱいの高校生男子二人が、絶望している人妻と三人で「天国の口」という浜辺に向かう物語。
どうしょうもない二人の若者と美しい人妻の馬鹿馬鹿しい不倫の物語といってしまえば、それまでのこと。でも、映画の中でモノローグで語られるその後の話で事態は一変する。
人妻は余命一ヶ月の末期癌患者だった。
青年たちは一人の人間の人生の最後の旅に同行したことがわかる。そして最後のセックスの相手をしたことがわかる。ふざけた猥雑な感じで描くこの映画の意図は、まさに宮台氏が述べた「低俗さ故の祝福というラテン性」なのかもしれません。
まぁ、要するにロックしてるわけだ。
挿入歌の“ Love Somebody ”は、昔々、幼い恋を描いた秀作「小さな恋のメロディー」でも使用された曲。
下品さの向こうに「純」を見出そうとする姿勢がここにもあるのかもね。
馬鹿馬鹿しいほどありふれた風景の神聖さこそ、今僕も求めたい。

そしてもうひとつ、
「遠い者が勝つ」と「近い者が勝つ」の違いについて。
ひとつの例で言えば、ノスタルジーの危険性と言うことになるかもしれない。遠いところにいる者は、近くにいる者よりも「美しく、かけがえのない」者に思える。しかし、これは幻想なんだ。
僕らは「近い者」の価値に気づかなくてはならない。
宮台氏がその例として「続・三丁目の夕日」を引き合いに出していますが、まさに、この作品は「遠い者が勝つ」典型例と言えるでしょう。
近い者とは「今」であり「ここ」であります、が、遠い者とは「過去」であり「彼方」である。「続・三丁目の夕日」では前作以上に「今、ここ」よりも失われてしまった戻ることのできない過去が残酷なほどよく描こうとしています。それは経験した者の特権意識からくる選民感覚だと僕は思う。「続・三丁目の夕日」を観て、プロデューサーの団塊性と閉鎖性がとうとう明白になったと思いました。
その意味で、僕としては「近い者が勝つ」作品作りをしたいと思うなぁ。

この映画論は、一読すべきものだとおもうな。


メキシコ映画『天国の口 終わりの楽園』2002予告編

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