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2009年9月18日金曜日

スローライフという落とし穴

癒しという言葉は、どこか卑しい。
Slow Life という言葉も、どこか Sorrow Life という感じがする。

早期発見、早期治療と言われている癌治療において、たとえば「抗がん剤」が実は強力な毒薬であり、それ以外に手はないにしろ、体内に入れた抗がん剤で逆に痛みと苦しみが発生しているのは事実。
にもかかわらず、医療現場は高価な抗がん剤を投入しようとする手を休めることはない。
よくよく頭を冷やして考えてみれば、これまで当たり前と思ってきた治療方法であっても、どこか利権の匂いがしてこないだろうか?
そこら中に意味の逆転現象が起こっているような気がしてならない。勿論、それはすべて果てしなく貪欲な商業と結びついているのですが。

近年、よく耳にする「スローライフ」という言葉も、おお!なんて素敵な生活よ!などとは思えない。
これもまた、いわゆる金銭的に余裕のある人々のステータスシンボルになり、今までやったこともない農作業を美化し、過疎が進む地方を必要以上に礼讃し、そこにまた商機をみる企業が参入してくるというこれまで同様の流行廃りのパターンそのものを繰り返しているようです。

演劇で一時期「なにも起こらないドラマ」というのを殊更のごとく取り上げる時代があった。
最近は少しバランスが取れてきているように思うのですが、ほんの少し前まで、市川準さんの映画より一足遅く、「なにも起こらない」つまり「なにも語らない」ドラマが最も先端的な時代がありました。
もし、今でもそんなことを金科玉条のごとく言っている人間がいたら、それは単なるアホですから放っておきましょう。
確かに、作り事くさい嘘くさいドラマが溢れていた時代には、リアリティーは何も起こらないことを求めたと思います。日常の時間では2時間で人はまず変化しませんから、2時間で登場人物が大きく変化するのは「嘘くさい」つまり「クサイ芝居」だと思われたわけです。
その意味では「なにも起こらない」には一理あったわけです。ですが、同時に何かが起こり変化することがまるで底の浅いリアリティーを無視した嘘に過ぎないという偏見も生み出したのでした。
でも、それは違います。
なにも起こらない、というのも日常の生活に対する思い込みと偏見であり、そういう面もあるし、確実に何かが起こってはいるのですよ。しかし、なにも起こらない方が「深い」と思い込む癖がこの国には未だにあるようです。

「癒し」と「スローライフ」という価値観は、その「なにも起こらないドラマ」と軌を一にしているような気がするんです。
変化を嫌い、今のままを持続させたい、そして、人よりも余裕のある暮らしがしたい。ゆえに、精神的にゆとりのある勝ち組みには「癒し」と「スローライフ」が相応しいライフスタイルになるのです。この価値観は「今が変わらない」ことを望むんですから。
そこに企業を中心とした商業組織から発せられたプロパガンダと新興宗教的な匂いを僕は感じるのです。
なぜなら、人間の幸福の在り方を、まるで新自由主義的(乃至は市場経済的)とは逆行するようなスタイルで、本質的な「市場経済的意志」を隠すからに他なりません。

癒し系という言葉はだいぶ古くなってはきましたが、未だに使用に耐える表現ではあります。しかし、スローライフも含め、ずいぶんと落とし穴が隠された言葉だなぁと僕は思います。

なにも起こらない、という感覚は間違っている。
あらゆることが起こっており、僕らが主体的に「取捨選択」を繰り返しているというのが真相でしょう。だとすれば、なにも起こらないことを「癒し」だとか「スローライフ」などと呼んで殊更価値を与えるのはよした方がいい。

都会であろうが、田舎であろうが、人は、自分自身のまわりに独特の世界を創り出していく性質があるようです。
簡単で単純なレッテル貼りをやめ、複雑で味わい深い自分とそのまわりの世界を味わいたいものです。
僕たちは、殊更、山には入る必要もないし、ヒルズに部屋を持つ必要もない。
僕らの世界は、今、目の前に、あるんだから。

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