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2009年8月27日木曜日

朝4時のZep

Led Zeppelin

先日、レスポールが亡くなったというニュースがありました。
エレキ・ギターの発明家の死は、やっぱり時代の変わり目を感じます。レスポールからジャズギター、そしてロックそのものがはじまったといってもいいんだろうと思う。

演劇の歴史は、ロックのそれに比べればはるかに長いので、どうもその変化が感じられません。演劇の流行ってのもあるんだけど、一般にはそれほど意識されることはありません。
ところが、ポピュラー音楽の歴史の方はまだまだ浅いので、変化はたえず意識されるのかもしれません。例えば、レッド・ツェッペリンなど、このブログでご紹介している映画やアーティストのほぼすべての例に漏れず、とっくに忘れられた存在なのかもしれませんね。
なにそんな昭和のロックにこだわってんの?と思われるむきもあるでしょう。
でも、ロックのみならず、様々な時代や場所や自分自身を形成してきたモノを、簡単に水に流しすぎだって、僕は思うのよ。

そんな簡単に記憶喪失にはなれません。
いいと思うものは何故によかったのか。
何に憧れ、何に失望したのか。
失われたモノで記憶に留めておくべきモノは何か。
新しいモノにすぐ飛びつく安易さを捨てる。
文学も哲学も、社会学も心理学も、政治も経済も、地道に解釈し続ける鈍重さがなければ、本当の自信に満ちた軽快さとリズムは生まれないだろう。
だから、
簡単に忘れないこと。

レスポールさんは亡くなりましたが、僕の中のロック魂はまだ消えていない。
演劇のロック性をまだ実現できていないから。
それには、僕自身がどこから来たのか、しっかりと見据えなければならないから。

僕の中でレッド・ツェッペリンは、ディープ・パープルと並ぶ、ハードロックのイコンでした。
もし、アイドルというものが僕にあったとするなら、それはロバート・プラントであり、ジミー・ペイジであり、松田優作だった。それは確か。
七十年代後半の忘れてはいけないイコン達。
ロックンロールというものがキャロルとは違った形で存在し得ることを教えてもらったのでした。ハードロック系の音楽は、ロックンロールという単純なスリーコードの世界からすでに離脱してしまったモノなのかもしれないと思い込んでいた僕には、ツェッペリンの「ロックンロール」は新鮮かつ斬新で、ロック音楽を新たな視点で捉えるきっかけになりました。
十七歳の僕はちょうど日本映画(特に日活ニューアクション)にはまっていた頃で、古い中に新しさを見出す訓練に明け暮れていた時代だったのかもしれません。

レスポールと言えばジミー・ペイジです。
やはり、その人物には相応しいギターがあるようです。アンガス・ヤングにギブソンのSGがあるように。それは、人は常になにものかを選択しつつ、人生を生きていくということなんだよな。
僕らはそれぞれ、僕らに相応しい楽器を選ばなくてはならない。
それは、相応しい人生の選択に他ならないのだから。

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