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2005年11月24日木曜日

損得感情

損をするというのは、そんなに悪いことだろうか?
損をせずに生き続けるなんてことができるのか?
得だけを目指す人生ってどんな人生だ?

そこで私は声を大にして言う。
『損はしろッ!得だけを考えるなッ!』と。

経済は道具である。経済から日々を眺めるのは重要なことだが、経済だけが我々を形作っているのでもない。より良い経済体系などない。とどのつまりが自由主義経済であり、競争社会である。我々は後戻りができないのである。
これが故に、つまり経済がすべてと考えるところに現代人の空虚さがある。
この空虚さはニューヨークはおろか、アマゾンの奥地にまで蔓延している。
現代人は大都会から片田舎に至るまで、経済性という虚しいダンスを踊っているのである。
現代の『幸福論』の多くは、成功哲学から宗教に至るまで、この世の利潤の素晴らしさを少しも疑わない。二十世紀から二十一世紀に至る中心思想(イデオロギー)は宗教でも哲学でもない。それは経済学なのである。
世界の政治的なうねりは、あたかも宗教戦争の様を呈しているが、その背後にうごめいているのは、他でもない経済的な利権争いであることは誰の目にも明らかであろう。

経済は究極のところ「損得勘定」である。ケインズにしろマルクスにしろ複雑系経済学にしろ、ようは損をせずに如何に得して生きるかを説いているに過ぎない。
勿論、経済が崩壊した社会など最早考えることなどできないところまで来てしまってはいるが、少なくとも日常の些末な暮らしの中では、損得勘定という感情を抜きに人が出会い、付き合い、語り合うことができないものだろうか、と私は考えるのである。

現代人にとって、損をするというのは、まるで致命的な病に冒されたかのような感覚がつきまとっている。株でもうけるというのは、株で損をした人間がいて、初めて成立する話だろう。電車に乗り込む時、他人より先に入ろうとして、横入りする行為は、そのために後回しにされた人がいるから、先に入って席が取れるのだ。損があって、得は成立している。従って、人はできるだけ損をしまいと思う。損は一種の病のようなものであって、できる限り避けて通るべきものになる。

損と得とは持ち回りである。損が病気で得が健康でも、損が異常で得が正常でも、損が間違いで得が正しいわけでも、損が愚かで得が利口なのでもない。
損得勘定という感情に溺れるのが、愚かで不健康で間違っているのである。

アメリカで行われた面白い調査がある。ある研究者が現役の大学生たちに次のような質問をした。
「あなたは年収を3万ドルから5万ドルに引き上げる。ただし、他の人間の年収は君の2倍になる。もう一つの選択肢は、君の年収を3万ドルから4万ドルにしよう。その代わり他の人間は1.5倍になる。さぁ、どちらを選ぶ?」

学生が選んだのは後者である。明らかに5万ドルに増収しているにもかかわらず、学生の多くは後者を選んだのである。
更に、質問は続く。

「休暇をもらうことになった。君たちには2週間、他の人達にはその倍の4週間あげることにする。ただし、もう一つ選択肢がある。君たちに4週間あげよう。他の人達には10週間あげるが」

学生達は迷うことなく、後者を選んだ。

ここに損得勘定の愚かさがある。金銭に関しては明らかに他人と比較して損の割合の少ない方を選んでいる。にもかかわらず、休暇の方は、他人と比較することなくより長期の休暇を選んでいるのである。
損得勘定はどこか他人との比較の上で、もしくは、楽な方へただ向かう人間の性向から成り立っているようだ。

親と子の関係が損得勘定で結びついた時、悲劇が起きるのは明らかだろう。
子に得することを教え、損する意味を教えなければ、損した時の打撃はいかばかりか。目の前の苦しむ人間を子が放っておくことを奨励する親がいるとすれば、その親も確実に損得勘定の感情の虜になっている。
生活のあらゆる面を、損得勘定という尺度で量らねばならぬとしたなら、生きるというのは、なんと息切れのするものになることだろう。優しさとは、時には損を引き受ける勇気のことではなかったか。

他人と比較して、自分が情けないことは、本来多々あるはずである。楽な方へと向かうことが適わぬ場合も、多々あるに違いない。損して得とれ、という気はないが、損はして当然、時には得もいいもんだ!ぐらいのスタンスでちょうどいい塩梅なのではないかと、私は痛切に思う。
人生という道のりで、我々が損得勘定という感情を乗り越えなければならない場合が多々あるはずだ、というのは日々の最低の心構えであり、虚無から遠ざかる一つの方法ではないかと思う。

『損はしろッ!得だけを考えるなッ!』
自分の生きる日々を、本当に愛おしく思うなら、己の愚かさを引き受けろ。

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