| タイトル『紅』 作:米島虎太朗 |
2019年5月18日土曜日
『美しいということ』
2019年5月11日土曜日
懐疑的であることはたいせつだよ
| "The Power of the sun" by Kazan UENO |
信じるという言葉があります。
僕らが日常的に使うこの「信じる」という言葉は、実に多様な意味がありますね。神や真実の存在を信じたり、あなたの言うことを信じたり、新聞の記事を信じたり、ネットの噂を信じたり、SNSの投稿を信じたり、、、、、どれもが同じようですが、ちょっと違う。
信じる行為を可能にさせるのは、信仰や信頼や愛情や友情や尊敬や、様々な要素によって質のことなるものだからです。
とはいえ、僕らは常に何かを信じたいし信じるからこそ何らかの確信を持って前へ進んで行けるし、信じるからこそ様々な問題への対処が楽になる。
ですが、本当に信じることで救われてますか?信じることで大概は救われるのでしょう。信じるからこそ、何かに囚われ、がんじがらめになり、疑うことが罪悪に思え、身動きがとれなくなる、なんてことありませんか
昔読んだ本の中で、クリシュナ・ムルティという方が「私は何も信じない」と言っておりました。確か彼の著作のタイトルにもなっていましたね。
自分の教団を持ちながら、信者たちを捨て、教団を畳んだ彼は、自ら何も信じないと言うことで、彼の後を追う信者たちに「自らの力で考えよ」と言ったのだと思う。
同じようなことがかつてドイツでもありました。
実存哲学の巨星、マルチン・ハイデガーは戦後ナチスに協力したということで、評価を著しく下げてしまった晩年が哀しい哲学者でしたが、戦争中、弟子であり愛人でもあったハンナ・アーレントをドイツからアメリカに送り出す時、こう言いました。
「思考せよ」
単純に何かを信じるのではなく、考え続けることこそ価値のあることだと伝えたわけです。
信じるという行為は、本当に難しいことですね。例えば夫婦だって信じることがなければ一緒に暮らすことなんてできやしない。信じることは、それほど僕らの日常に深く根ざした根本理念とも言えるかもしれません。
それでもなお、信じることの「怪しさ」、場合によっては「いかがわしさ」に注目せずにはいられません。
日々流されているニュースにしても、特にあからさまなフェイク・ニュースというわけではないにしても、すべて信じ込むような人はいませんよね。何か事件が起こると似たような事件が立て続けに報道されますが、それは報道する側が取捨選択もしくは忖度しているわけです。僕たちがニュースを選べるわけもなく、すでにメディアによって取捨選択と忖度が行われて、その結果として見せられているに過ぎないのです。
だとすると、一概に一連の報道を基に傾向を探ることは、報道を流す側の忖度に乗っかってしまうことになりはしませんか?
テレビは駄目だけど新聞は信じるというメディアの種類の問題ではなく、受け取る側のこちらの姿勢の問題なのです。鵜呑みにするのは受け取る側が「信じ」込む準備ができているからです。準備は教育かもしれないし、目上の人間から受け継いだ信念かもしれないし、社会的立場で培った常識かもしれません。いずれにせよ、自らを疑うことがない場合は、容易に「信じる」という行為が生まれやすいのではないかな。
それとは対称的なのが「懐疑的である」ということです。
一般に懐疑的であるというのは、どこか斜めに見た嫌らしい態度のように見られがちです。懐疑的=疑り深い、というのかな。
とはいえ、懐疑的であるというのは思考するということであり、疑うことのない思考は思考ですらないかもしれない。人間の頭の中は絶えず様々な事象が入れ替わり立ち替わり現れ、疑問(疑念)と検証(確認)を繰り返しています。
疑うことがなければ確認もないので、疑うことがなければ放置されるわけです。安易な信じるという行為の究極の危険性はここにあると言えます、
すなわち、思考をやめ、事象を「放置する」ということ。
クリシュナ・ムルティの「何も信じない」も、ハイデガーの「思考せよ」も共に、放置せず、人任せにせず、自らの精神をフルに使って、頭脳を働かせ「疑え!考えろ!」と言っているのではないかな。僕にはそう思えてならないのです。
懐疑的であるというのは、実に良いことです。
懐疑的であるからこそ、思考するのですから。
懐疑的であることにあまり良い印象を持たない日本という国の常識的なものの見方こそ、見直すべきものだろうとしばしば思うのです。
「懐疑的であること」にあたる英語の"Skepticism"は決してネガティブな意味はないと思うけどね。
何事も簡単にあるいは安易に信じすぎず、疑いましょう。
2019年5月6日月曜日
言語化する意味
【頂いたルチャのマスクを被って著者近影】
2019年4月11日木曜日
春が来たんだぜ!!
ある時からブログそのものに嫌気がさして、この数年間放置していました。悪しからず。
ごめんね。許してね。愛してるぜベイベ★★ありがとう。
で、それが、少し心境の変化もあり、またネット上のブログにも向き合ってみるか、という気になりました。
この数年、本当に真面目に「音楽」に取り組んでいたので、バンド活動が本格化してきました。勿論、また芝居もやりますが(実は朗読劇の準備をしております)、作詞・作曲とLIVEを真剣にやってきて、スタジオライブから次回は、いよいよライブハウスに本格進出を果たす予定です。
写真は先月(2019年3月21日)行ったLIVEの写真です。
場所は「中野サンプラザ地下スタジオ BASS ON TOP」
音楽と芝居は、舞台という意味では全く同じ重さで僕という人間を形成しています。何十年も前に文学座で芝居に音楽は必要かという論争を繰り広げ、そのあげく大御所の諸先輩方に叱責を受けたのも昨日のような気がします。それでも僕には音楽と芝居の両方が必要です。
数日前から法政大学の「比較演劇学」の講義もスタートし、誠に忙しい日々を過ごしておりますが、こうして夢中になって音楽、芝居、英語、比較演劇学、といった様々なモノに取り組めるのは「幸福」以外の何ものでもないなと思う次第です。
兎にも角にも、感謝、感謝、であります。
これから、心機一転、このブログも更新していこうと思いますので、改めてよろしくお願い致します。
2016年11月1日火曜日
演劇における音楽の位置の問題
先日、縁あって千葉の方で行われた「焚き火の会」というのに参加しました。
昔、岩手にいた頃は庭先で焚き火は日常茶飯事でしたが、今都内で焚き火ができる環境は、ほとんどありません。従って、都会に住む多くの子供にとって焚き火は想像の外にあるといっても過言ではないでしょう。
参加した多くの子供たちは、時間が経つにつれ、どんどん解放されていくんですね。自分のしたいことをしたいようにやるという人間の基本姿勢を見せていました。
そうなると、残念ながら学校教育なんてものは、焚き火の炎の前では無力だな。なぜなら、教育は教師に仕込まれるものじゃなく、自発的に発見し、楽しんで身につけたり、深めたりすることなんだよな。それは参加した自分も含め子供たちや大人たちを見てはっきり思いました。
誰一人命令したり指示を出したりする大人がいないのがいい。大人も子供も自分の好きなことしかやらない。それでいいんだな。
さて、そんな中で僕は秋刀魚を焼く係りになりまして、ひたすら秋刀魚を焼きまくりました。網に秋刀魚の皮がひっつかないように豚のラードをあらかじめ塗って、少し焦げるぐらいまで焼く。そのジュージューいってる奴を皿に載せ、おろしたばかりの大根下ろしを添えて、スダチのようなレモンを搾り、醤油をかけて食う!うまい!全身秋刀魚の匂いになりながら僕は幸せだった。
夕方、秋刀魚がだいたいはけた頃、何人かの方々と今度はとびきり旨い豚の串焼きを食べた。旨い塩が練り込んであり、肉は柔らかく、ジュースィーイ!!!
唐突に話題は演劇と音楽に関するものになった。
実に唐突に人生は転回する。いや展開するか?
いずれにせよ、実に興味深い話になった。お相手はフルート奏者にしてDJであり、文筆家でもある花田志織さん。
僕は演劇とはドラマだが、音楽を決してSEではないと考えている。むしろ音楽によってドラマが喚起されるのが僕の常である。なので、音楽と科白、もしくは音楽とドラマはどちらも50%で半々だ、と考えている。彼女は僕にこう訊いた。
「上野さんにとって演劇とは何?」
僕は答えた。
「音楽をベースにドラマを考える、それが僕の演劇ですよ」
すると、志織さんはこう言った。
「それは音楽を演劇で表現なさってるんでしょ?」
いやぁ、良い言葉だな。そうなんだ、確かに僕は音楽を演劇化しているのだと思う。作曲と同じだけ戯曲を作り、演奏と同じように演出する。
僕は音楽を演劇にしているのだと、焚き火で自覚できた。
いつも弾いているピアノと同じように演劇に向き合いたいと思う。僕の演劇は音楽であり、音楽は演劇だ。
音楽は感情であり、空気であり、匂いである。
音楽は色であり、肌触りであり、夢である。
音楽は記憶であり、メッセージであり、時間であり、愛である。
そうか!なんで僕は芝居をやりながら、バンドをやるのか。今はっきりわかる。
僕の演劇における音楽の位置は、焚き火の熾火のようにドラマの中心点にあり周りを照らすものだ。効果音のような添え物ではなく、音楽はドラマそのものを彩り照らすものだった。
「音楽を演劇で表現してるんです」
これ、僕のこれからのキャッチフレーズ☆
志織さん、Thanks!!!!
こんど、セッションしましょう!!!!
2016年10月28日金曜日
最近、、、
最近、、、SNSに書き込むことはあっても、ブログをあまり書かなくなってしまった。でも、ブログの存在意義も少し分かりはじめた気がする。
SNSはブログに比べれば、TwitterにせよFacebookにせよ、はるかに公共的である。
そのパブリックスペースでは、やはりなんだってありというわけにはいかない。もちろん、ブログも公共性はあるが、それはある程度まで、そこにはそのブログの開設者個人の生き方がSNS以上に反映されるだろう。
例えて言えば、SNSは集合住宅なのに対して、ブログは一戸建てだと思う。メインテナンスも環境の構築もブログは開設者個人の勝手である。
今更ながら、ブログの面白さに気がつき始めたのである。
ブログとは「非公共的」であると思う。それは私小説だ。
ブログをはじめて何年経とうと自分のことしか書けないし、今もなおわからないことだらけ。
実際、知らないうちに、とんでもない書き込みをされたり、妙なリンクを貼られたりもする。素人の僕にはその方法すらわからないが、乗っ取られるのか、手を入れられるのか、いずれにせよブログもSNSに負けず大変なことがいろいろある。最近も変なリンクを貼られたりしたからね。
それでも、ブログはSNSにはない魅力があると思います。
日常の仕事の片手間ではあるけれど、これからもあれこれ書いていこうと思います。もっと頻繁に更新できればいいのですが、なかなかね。。。
今、様々な形で執筆環境を整えているので、徐々にもっと頻繁になっていくのではないかな。
今世間では、相変わらず芸能人のスキャンダルやら、妙な事件事故が相次いでいますね。
民衆が知るべきFACT(事実)を隠すためにISSUE (問題)を造りだし、TRUTH(真実)を求める民衆の眼を煙に巻く。なんてね、そんな韓流ドラマ風に勘ぐりたくもなるような動きが随所に見え隠れしています。
朝から晩まで似たようなニュースをTVでも新聞でもネット上でも垂れ流しながら、例えば、日本の農政のみならず社会福祉政策、及び市民生活の隅々にまで破壊的で壊滅的な影響を及ぼすであろうTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の行方はまったく報道しない。もうすぐ強行採決しようとしてるのにね。
最近、、、最近、、、最近、、、、、
2016年9月28日水曜日
何が失われたのか
随分前のことのような気もしますが、実際はついこの前の出来事。
覚書として上げておきます。
世界で起こっているこれが民主化の正体。
一度失われたものは二度と取り戻せないのかもしれない。しかし、気づくことが大切。
独裁者と糾弾された男を失った後、あの国は何を無くしてしまったのか。
これはその覚え書き。
《16 Things Libya Will Never See Again》
By Saya on October 24, 2011 in News
1. There is no electricity bill in Libya; electricity is free for all its citizens.
2. There is no interest on loans, banks in Libya are state-owned and loans given to all its citizens at zero percent interest by law.
3. Having a home considered a human right in Libya.
4. All newlyweds in Libya receive $60,000 dinar (U.S.$50,000) by the government to buy their first apartment so to help start up the family.
5. Education and medical treatments are free in Libya. Before Gaddafi only 25 percent of Libyans were literate. Today, the figure is 83 percent.
6. Should Libyans want to take up farming career, they would receive farming land, a farming house, equipments, seeds and livestock to kickstart their farms are all for free.
7. If Libyans cannot find the education or medical facilities they need, the government funds them to go abroad, for it is not only paid for, but they get a U.S.$2,300/month for accommodation and car allowance.
8. If a Libyan buys a car, the government subsidizes 50 percent of the price.
9. The price of petrol in Libya is $0.14 per liter.
10. Libya has no external debt and its reserves amounting to $150 billion are now frozen globally.
11. If a Libyan is unable to get employment after graduation the state would pay the average salary of the profession, as if he or she is employed, until employment is found.
12. A portion of every Libyan oil sale is credited directly to the bank accounts of all Libyan citizens.
13. A mother who gives birth to a child receive U.S.$5,000.
14. 40 loaves of bread in Libya costs $0.15.
15. 25 percent of Libyans have a university degree.
16. Gaddafi carried out the world’s largest irrigation project, known as the Great Manmade River project, to make water readily available throughout the desert country.
《リビアで二度と見られなくなる16項目》
2011年10月24日、Sayaによる投稿記事
1. リビアには電気代の請求書が存在しない。電気は全国民、無料だ。
2. 融資には金利がなく、リビアの銀行は国営で、全国民に対して与えられる融資は、法律で金利ゼロ・パーセント。
3. リビアでは住宅を所有することが人権と見なされている。
4. リビアでは全ての新婚夫婦が、新家族の門出を支援するため、最初のアパート購入用に、政府から60,000ディナール(50,000ドル)を受け取る。
5. リビアでは教育と医療は無償。カダフィ以前、識字率はわずか25パーセントだった。現在、識字率は83パーセント。
6. リビア人が農業の仕事につきたい場合には、農園を始めるための、農地、家、器具、種、家畜が、全て無料で与えられる。
7. リビア人が必要な教育あるいは医療施設を見いだせない場合、政府が外国に行くための資金を支払い、さらには実費のみならず、住宅費と自動車の経費として2,300ドル/月、支払われる。
8. リビア人が自動車を購入すると政府が価格の50パーセントの補助金を出す。
9. リビアの石油価格は、リッターあたり、0.14ドル。
10. リビアに対外債務は無く、資産は1500億ドルにのぼるが、現在世界的に凍結されている。
11. リビア人が、卒業後就職できない場合は、本人が雇用されているかのごとく、特定職業の平均給与を、職が見つかるまで国が支払う。
12. リビア石油のあらゆる売上の一部がリビア全国民の銀行口座に直接振り込まれていた。
13. 子供を生んだ母親は、5,000ドル支払われる。
14. リビアでは、パン40斤が0.15ドル。
15. リビア人の25パーセントが大学の学位を持っている。
16. カダフィは、この砂漠国家のどこででも自由に水が得られるようにするため、大人工河川計画として知られる世界最大の灌漑プロジェクトを遂行した。
記事原文のurl:www.disinfo.com/2011/10/16-things-libya-will-never-see-again/


