2009年8月10日月曜日

雨の京都へ!

台風接近のため関西はすんごい雨っす。


そんな中、ぜひとも鍵善の葛きりを食べたいので、京都へゴーです☆


果たしてたどり着けるのか?

激しい雨の中、電車が走る!


☆上野火山☆

2009年8月8日土曜日

鵜沼にて

明日まで岐阜の鵜沼に滞在中☆

芝生の庭で、ロットワイラー犬のルナと遊びます。東京では久しぶりの太陽の光を、ここではたっぷり浴びることができてて気持ちいいですね♪

今年は残念ながら、木曽川の花火は見られませんが、燦々と降りそそぐ陽の光に感謝!

明日は午後から関西へ移動します。

高槻、京都、神戸と移動し東京へ戻ります!!

しばらく、携帯ブログでいきます。

よろしく(^-^)/♪


☆上野火山☆

2009年8月7日金曜日

Imagine

“ IMAGINE ” by John Lennon


Imagine there's no heaven

It's easy if you try

No hell below us

Above us only sky

Imagine all the people

Living for today...

Imagine there's no countries

It isn't hard to do

Nothing to kill or die for

And no religion too

Imagine all the people

Living life in peace...

You may say I'm a dreamer

But I'm not the only one

I hope someday you'll join us

And the world will be as one

Imagine no possessions

I wonder if you can

No need for greed or hunger

A brotherhood of man

Imagine all the people

Sharing all the world...

You may say I'm a dreamer

But I'm not the only one

I hope someday you'll join us

And the world will live as one



911以降、世界の狂いの速度は確実に加速している。911の隠された部分を知ることは不可能だろう。それでも、ひとつだけハッキリしていることがある。それは、この世界の住民に「想像力」を望まない者たちが、まさに存在しているという事実である。

あらゆる時代の中で、第二次大戦以降ほど、想像力を奪う実験が行われてきた時代はないように思う。
それはテクノロジーの異様なほど急速な進歩によるところもあるだろう。だが、常に真実を隠すメインストリームにいる連中、或いは不特定多数のエスタブリッシメントにとって、「想像力」こそ最も恐れ、避けなければならない「力」になったのだと思う。

先進国の教育が破壊されつつあるというのは自明のことだが、その破壊の仕方の典型は、学習を暗記型にすることで習慣的に創造する機会を奪うことにある。暗記することが学習の基本だと思い込まされた人間は、判断するための想像力よりも、知っている知識量の方を優先するようになる。かつて日本の学習の特徴といわれたこの暗記型学習が今や全世界に行き渡りつつある。つまり、判断力の基本である想像力、もっといえば「妄想力」が奪われつつあるのである。アメリカの教育制度の中身が、ブッシュによって大幅に軌道修正され、暗記型へ舵を切ったのも911以降であることは偶然ではない。今世紀に入り、冷戦構造という古い飽きられつつあった体制を捨て、新たにテロとの戦いに世界は突入したのである。新しい仮想的は東側でも西側でもないテロリストであり、民主国家は同盟国として連携しなければならない。正義の国アメリカとその一派 vs. テロリスト国家、という冷戦時と形を変えながら実はまったく同じ単純な二項対立の構図。善と悪の構図。そして、大切なのはこの構図を疑ってはならないということだ。

そして、911直後、ジョン・レノンの「イマジン」は放送禁止になるか、自粛された。

まず最初に放送禁止なったのが、戦意高揚を阻害する「想像力」の曲であったというのは象徴的だ。
ニール・ヤングは、911追悼式典で、あえてこの歌を歌うことで蔓延する「常識」に対する抵抗を試みた。

そして、僕もこの国を思う。
「自粛」と「無視」を常態化させているマスメディアの中で、戦おうとしている人間がどれだけいるのか。
アメリカは確かにあられもない姿をさらけ出しているけれど、日本はどうなんだ?
創造しよう。
この国もまた、内部から、様々な形で破壊され解体されつつあるのだ。それは、国家の枠組みというよりも、むしろ価値観の破壊といった方がいいかもしれない。文化的、伝統的、創造的な側面が痛めつけれれている。
僕たちは奴隷じゃない。
それは、想像力があるからなんだ。想像力がある限り、僕らは奴隷には決してならない。
想像力とは懐疑力のことだから。

ニール・ヤングのイマジンを聴こう☆

今日からしばらく僕は、東京を離れます。しばらく、携帯でブログ更新します!!
また!!!

2009年8月6日木曜日

Summertime Blues

Stray Cats :

明日からしばらく東京を離れます。

どうも夏ッ!って感じになりませんね。温暖化とはいうけれど、ほんとに温暖化してるんだろうか?
76年に東京に出てきたとき、寒い夏でした。夏なのに冬のコートを着ていたのを覚えています。その年の冬は大雪で中央線が止まってしまった。
あの頃、世間では「氷河期」が近いと言われていたのです。マジに。
地球全体が少なくとも「小氷河期」に入るだろうと専門家達は口をそろえて騒いでいました。

なのに、八十年代に入り、やがて、いつのまにか、ふと気がつくと・・・「地球温暖化」が騒がれていたわけですよ。だから、今の三十代ぐらいまでの人にはあまりピンとこないかもしれないけど、環境問題に関して専門家と呼ばれる人々の言説もどこか「変」なんだよ。
二酸化炭素排出量に関しては、今や国家間でまるで株の取引のように扱われ、知らないうちに、新しい金融商売が出来上がっている。
その意味では「地球温暖化」すら、政治的策略のひとつかもしれないと疑ってみる必要があるのかもしれない。懐疑主義的姿勢が必要な時代なのさ。懐疑主義を極力生まないように、思考力低下をめざしたのがこの国の戦後教育だったのでしょう。そして、まさにそれが今実現しつつある。
思考力とは懐疑力のことだと思うよ。

#1. 知識や情報を簡単に安易に「暗記しない」こと。
#2. 情報それぞれを鵜呑みにせず、たえず他と「比較する」こと。
#3. 自分自身に染みこんでいる「常識をまず疑ってみる」こと。


僕がロックするというとき、それは懐疑する力を高めることをいう。
ロックとは大人になるのを拒絶する成長不良のことではないだろう。まして、反体制を標榜し、殊更のように犯罪に手を染めてだらしなく生きることでもないだろう。
妙な比較かもしれないが、それこそ押尾学のロックと銀杏BOYZのロックの本質的で決定的な差異に他ならない。押尾はロックじゃないが、銀杏はロックなんだ。
押尾はカッコイイが、銀杏はカッコワルイ。押尾は他人の馬鹿を歌うが、銀杏は自分の馬鹿を歌う。
押尾は人を裸にするが、銀杏は自分が裸になる。押尾は酒を飲むが、銀杏は酒を飲まない。押尾のロックはスタイルだが、銀杏のロックは生活だ。押尾は政治に憧れるが、銀杏は政治とは無縁である。押尾は喧嘩が強いが、銀杏は情けない。押尾は非凡で、銀杏は平凡。押尾はお洒落なアメリカンだが、銀杏は限りなく田舎臭い。押尾は六本木の匂いがするが、銀杏は中央線と井の頭線の匂いがする。
だから、押尾学はロックじゃないが、銀杏BOYZはロックなんだ☆
ロックするとは自分と向き合うことだ。
謙虚な懐疑力が、僕らをロックさせるんだよ。
だとすれば、まずはその己の思い込みと常識から疑ってみるべきなんだ。

Stray Cats の Summer Time Bluesを聴きながら、そんなことを思った。

2009年8月5日水曜日

ホルモン最大限の魂☆

マキシマムザホルモン:MTH


なにしろ嬉しそうなのがとてもいい!!
音楽すること、ロックすることが嬉しくてしょうがない、それが伝わってくるんだよ。

本日の仕事の合間に癒された2曲でございます。

いろいろ煮詰まってますからね。。。。そんなときには「ホルモン最大限」だッ☆

思いっきりハッキリ、レッチリ(Red Hot Chili Peppers)とレイジ(Rage against the Machine)を意識しているバンド。気持ちいいぐらいまんまだね。
「Carry on ぶっ生き返す!!!」と叫びながら目をぐるんぐるんさせる魂を、俺は買う!

Carry On!!!!!

俺も止まらないぜぇええええええ!!!!!!!

『ぶっ生き返す』


『恋のメガラバ』

フロリダへ行こう!

真夜中のカウボーイ:1969


ジョーはニューヨークで金持ちの女のジゴロになって一攫千金を夢見ている。
ラッツォは道行く人を騙しながら、なんとかその日暮らしをしている。
そんな二人が、出会って、罵倒し合いながら、大都会で生き抜き、やがて光溢れるフロリダをめざす物語。

アメリカン・ニューシネマという言葉で、一括りにするのはなんとも陳腐なことかもしれないが、それでも、僕はアメリカン・ニューシネマとかつて呼ばれた作品達を愛する。
六十年代末期から七十年代初旬に創られたアメリカン・ニューシネマと言われた作品群にハッピーエンドはありません。そう、挫折と夢が報われない現実を描き、同時に不思議なほど心洗われる瞬間がある。最近のアメリカ映画が忘れてしまったリアリティーがあるのだ。

どうしょうもなく単純で疑うことを知らない田舎者ジョーを演ずるジョン・ボイトは、己の肉体だけを頼りにする愚か者。そして、ダスティン・ホフマン演ずるラッツォ(ネズミ野郎)は、足が不自由な上に肺に病を抱えながら医者にも行けない始末。だが、二人には徐々に友情が芽生え、やがて旅を供にすることになる。
なけなしの金で手に入れたチケットを握りしめフロリダ行きのバスに乗り込む二人。だが、弱っているラッツォは小便をもらしてしまう。死期がすぐそこまで迫っているのだ。
「ごめん・・・」
と、情けなさそうに言うラッツォの服を着替えさせてやるジョー。
走るバスの中。ジョーの隣でラッツォが死んでいる。
バスは走り続ける・・・。

都会の挫折を描くだとか、叶わぬ夢を描くだとか、現代生活の虚しさを描くだとか、言葉ではなんとでも言えるだろう。でも、そんな紋切り型のステレオタイプの表現ではこの映画の本質をとらえることはできない。おそらく、ニルソンによる主題歌「噂の男」を噛みしめることで、この作品の核心に触れることが出来るのでないかと思う。

『噂の男』ニルソン



みんなが僕のことを噂してる
何を言ってるのか聞こえないよ
こだまだけが僕の心に響いている

見つめるのを止めた人々
僕は彼らの顔を見ることが出来ない
彼らの目の影だけが

僕は太陽が輝き続けてるところに行くんだ
そぼ降る雨の中
天気が僕の服を包んでくれる場所に行く
北東の風を後にして
夏のそよ風に浮かぶ
そして海原に乗り出すんだ 石のように

僕は太陽が輝き続けてるところに行くんだ
そぼ降る雨の中
天気が僕の服を包んでくれる場所に行く
北東の風を後にして
夏のそよ風に浮かぶ
そして海原に乗り出すんだ 石のように

みんなが僕のことを噂してる
何を言ってるのか聞こえないよ
こだまだけが僕の心に響いている
僕は君と離れたくない僕の気持に背きたくない
いやだ、僕は君と別れたくない
君と離れたくない僕の友情はどこに行ってしまうんだよ

♪(ROCKSさんより転載)


最初、ボブ・ディランに決まっていた音楽だったが、上がりが遅かったので、この曲に急遽差し替えられたという話がある。これもまた、運命かも。この曲がなければ、この映画はもはや成立しないのだから。
この偶然の産物のように現れた音楽のおかげで、この映画もまた人生が旅であり、人間はこの世界の旅人なのだという普遍のテーマに突き動かされていることに気づかされる。
情けなくも必死の「生」があり、惨めながらも穏やかな「死」がある。
バスの中で、窓に頭を傾けて死んでいるラッツォの姿と、歯を食いしばりながら前を見るジョーの姿に、この映画の描きたかったすべてが見える。

すなわち、「それでも、人は生きなければならない。そして、やがて自分の死を受けれよう。泣くな。前を見ろ」

抗うことが人間のヴァイタリティーだと思いがちだが、受け入れることもまた人間のヴァイタリティーに違いない。受け入れることもまた必死さを伴うから。必死だからこそ、受け入れざるを得ないから。


Midnight Cowboy: Opening


Midnight Cowboy Theme by John Barry

2009年8月4日火曜日

Let's sing an endless song for this shitty world...

リンダ・リンダ・リンダ:2005

高校生がシンクロしたり、ジャズやったり、んで、パンクかよぉおお!
な~んて思う大人にはなりたくないものです。
なぜなら、まさにこの映画で語られるような高校生活はそこら中にあっただろうし、今もあるはずだから。その意味では照れくさくて観てられないぐらいな感じだけれど、主人公は四人の女子高生。男同士でも、想い出バリバリの文化祭、女の子でパンクバンドのコピーときたら、それはすっごくはげしく燃える記憶になるに違いない。だって、彼女たちは自分も含めて、世界中のクズどものために歌うことに決めたんだから。
だれでも生きてりゃ大人にはなります。
問題は、どう大人になるかだと思うよ。

このクソッタレな世界のために終わらない歌を歌おう☆

この映画は実は、これがテーマなのだ。
明るく楽しい想い出映画などではない。

僕たちは、もれなく十七歳でいったんこの世界に絶望すべきなんだ。
絶望が足りないから、中途半端に虚勢を張り、中途半端に人を見下し、中途半端に揚げ足を取り、中途半端に失望する。
中途半端に失望するぐらいなら、完全な絶望を味わう方がはるかにいい。
これ以上先が見えなくなったとき、本物の闇に覆われたとき、人ははじめて、自ら覚悟を決めて歩き出すことができるんだ。漆黒の闇こそどこまでも続く未来へのブラックホール。そこを通るしか、予測不能の未来へは歩き出せない。

だから、
このクソッタレな世界を、しっかりとクソッタレと受けとめよう!

この映画に登場する雨に髪を濡らして、鼻をすすりながら演奏する女の子達は、本当にクソッタレをどこかで感じているような気がするぜ。たとえそれが演技であっても、どこか演技を越えているような気がする。青春は男も女も、かような具合にみっともなくも美しく、愛しい。

クズどもよ!聴け!
娘たちの歌うブルーハーツを!

「リンダリンダ」


「終わらない歌」


「僕の右手」
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